リフレーミング(reframing)してみよう

~「リフレーミング」は心理学の家族療法の技法で、これまでと異なる角度からのアプローチ、視点の変化、別の焦点化、解釈の変更という「フレーム」の架け替えによって、同じ「絵(状況)」でも違った見え方になり、自分や相手の生き方の健康度を上げていくことを言います。この能力は誰しも潜在的にもっていると考えられています。 これから私が書いていくことは、ジャンルを超えて多岐に渡ることになりますが、自分の潜在能力を使って、いま私たちの目の前にあること、起こっていることの真実に少しずつ近づいていけたらと思っています。

文科省統計をどう読むか(その1)~不登校34万6482人(2023年度)が語るもの

不登校統計」が示す「不登校」と、そこから見えてくる学校の現状

「年間欠席日数が30日以上」という基準

 「不登校」は、文科省の調査で「年間の欠席日数が30日を超える」ことで統計の対象になるという一定の基準があります。

 遅刻早退が多くあったとしても。出席日数は少しでも多くカウントしてあげたいのが教員側の心情でしょう。(部活動だけの参加や、SC(スクールカウンセラー)の面接だけに登校するなどを頑なに「出席」認めない一部の教員はいますが)そういう意味でも子どもが登校した日数がほぼ正確に記録されていると考えられます。

 したがって「不登校」は、年間200日ほどの要出席日数のうち30日以上、約15%以上の欠席があると「不登校」とカウントされ、年間授業日数の基準の35週を基に考えても、ほぼ毎週かそれ以上に欠席がある状態像を想定でき、調査統計の妥当性もあると言えそうです。

統計の裏側を読む

 ただし「統計」は、その数字の表面だけをうのみにせず、その数字の裏側をどう読むのかが大切です。

 不登校の場合、エネルギーの回復を図って多くを家で過ごす子どもばかりではありません。回復期を迎えて外出することが増え、学校や外部機関へのつながりを持ちはじめる子どももいます。例えば別室登校を続けることや、適応指導教室や認められたフリースクールなどへの参加、SCや教員との面談のための登校、放課後の部活動への参加などがそれにあたります。それらを原則的に「出席扱い」にしている学校が殆どで、表面上の「欠席」が減って年間30日以下になれば統計上は「不登校」ではなくなるケースが多く存在しています。

 実際に、教室には1日も入らず、適応指導教室と学校の別室登校を併用して出席扱いになり、記録上は年間無欠席の「実質は不登校」の中学生もいました。その生徒は公立高校受験の調査書の記載で「不登校」扱いではなくなったために、長欠の枠(学習成績=内申点を欠く者として当日試験のみ参考)を使えず、学校の定期テストは別室で受けていましたが日常の授業には出ていないために、実力よりも低い内申点で受験せざるを得ませんでした。(この生徒は合格しました)

 登校しているが教室には入れない、学校に代わる場所に通所しているなど、実際には日々活動している「隠れ不登校」ともいうべき児童生徒が一定数存在していることを知った上で不登校の統計を見ていく必要があります。

 

 2023年度の小中学校の不登校は34万6482人(文科省)。「教室」が不適応で不登校状態になっている実数はもっと多いとみていいでしょう。

 また年間30日以上の欠席ではなくても、現実的には欠席が増えてきている場合は学校や親が心配して、別室登校やSCとの相談などの「不登校支援」を受けている場合も多くあります。また、遅刻早退の多さなどで不登校予備軍の傾向を示している子どもも一定数みられます。いわゆる「裾野」の広がりの部分です。

支援の必要な子どもはもっと多く、困窮する学校

 この統計の「年間欠席数30日以上」という明確な一定の基準のラインがあるがゆえに、数値に表れない多くのことが想像され、どのくらいの規模のどのような支援形態が学校に必要なのかも見えてきます。

 

 統計からは、全国平均で少なくとも小学校では1クラスに1人以上、中学校では2人以上の統計上の不登校児童生徒がいて、その上に登校への不適応感を抱えた裾野グループが存在し、さらに「隠れ不登校」もいる状況が想像できます。

 実数は偏りがあるため、クラスによっては不登校の数が平均よりもずっと多いこともあり得ますし、それにプラスして不登校以外のことで支援を必要としている子どもも多くいます。

 こうして少し考えただけでも、支援が必要な子どもたちに対する学校の支援体制が追い付かない現状が想像できます。それに追い打ちをかけるように教員の過重労働による休職者あることがあちらこちらの学校から聞かれるほど疲弊してきています。

 このように学校の窮状が「不登校の統計」からは少しずつ見えてくるのです。

「統計」が語るメッセージ

 調査統計処理の専門家から「統計処理は、数字が語っていることを読むことが大事で、そのためには読むことができるように調査を取り、統計処理しなくてはいけない」と伺ったことがあります。

 基準が客観的で明確で、調査に公平性・妥当性が保たれていると、そこに書かれていない別の状況が推測しやすく、読み取れるものにバイアスがかからずにフィードバックされ、教育行政や社会に還元されて影響を与える可能性があります。

 「不登校の統計」は、そこからは「不登校」のひとりひとりの児童生徒の様々な状況が見えるものではありませんが、「不登校」という断面から見える学校の現状について多く語っています。このことは、不登校支援の問題に留まらず、学校全体の支援体制や教員の教育姿勢、さらに教員の定数や働き方など職場の課題に至るまでの検証と、これからの学校教育への問題提起にもつながっています。

「老朽化」した学校教育の転換期

 多くのケースを通して今の子どもの状況をみていると、子どもたちが余裕をもって程よく学校と付き合って、楽しみの多い小中学校時代を過ごすことがだんだん難しくなってきているように感じることが増えました。

 中学受験ブームに火がついて、学習がますます進学のための競争の手段の色を濃くしています。親たちの期待に応えるため、学校への適応が学習成績次第で決まるかのように、子どもたちの目に映り始めていることを危惧しています。

 塾や習い事で多忙な子どもの生活や、ゲーム中心の遊び方の変化なども子どもたち同士の結びつきの弱め、クラス内の子どものギスギスとした余裕のない人間関係を生み出し、集団の自助力を低下させています。

 その結果、学校に過剰適応してしまう子どもと、不適応になる子どもとの双方が増え、前者が「自傷行為」をし、後者が「不登校」になっていく傾向もみられます。また、子ども同士の「いじめ」の加害・被害、「性加害・性被害」なども増加しています。

 

 不登校統計が示す数値は、潜在的な不適応の膨大な裾野の広がりを示しています。「不登校」の止まらない増加傾向は、子どもの学校での「過ごしにくさ」の全国的な広がりを表しているのです。

 

 これらの多くの課題の存在と、学校の網の目からこぼれる落穂を拾うセイフティネットが既に追い付かない状況が示しているものは、社会の状況と解離した学校教育の「老朽化」そのものです。

 落穂そのものを減らすにはどうしたらいいのか。子どもたちが安心して心から楽しく過ごせる居場所になる学校にするには何が必要なのか。

 教育の根本理念の検証と学校教育の改革を本気で実行すべき「転換期」がやってきています。もう残された時間はありません。






 

本の紹介~親と支援者の拠りどころに:「子どものための精神医学」滝川一廣(著)

子どもの発達・こころの成長とは? 子育てとは?

発達障害の子どもに必要な支援とは?

家庭内暴力摂食障害児童虐待PTSD不登校、いじめ、うつ病、ひきこもりなどへの科学的知見に基づく支援とは?

 

「子どものための精神医学」滝川一廣 著 (精神科医) 医学書院(2017)

 戸惑いばかりで成長の手ごたえが感じられない毎日の子どもとの関わり、これで子どもはきちんと成長するのか、このほかにもっと良い効果的な関わりがあるのではないか、本当に今の方法がベストなんだろうかと、子どもに向き合う日々に葛藤のない日はありません。

 子育てと子どもの支援に奮闘し悩む毎日を送る親とその支援に携わる多くの人たちに、一度手に取ってみてほしい一冊です。

2017年初版の本で新刊ではありませんが、専門家だけでなく、幅広い人々に読まれ続けています。

 発達障害不登校、ひきこもり、児童虐待などへの誤った認識や偏見がメディアに氾濫している今こそ、正しい科学的な知見と認識に基づく支援が求められています。

 

 専門書ですので、全巻を読み切るのは少し量が多い方は、自分が今悩んでいる項目だけを開いて読んでみると良いでしょう。読んでみると、必ず関連性のある項目が気になってきますから、広げて読んでいく機会が増えてきます。通販で2,750円。ぜひ手に入れてみてください。

以下目次を載せておきます

第I部 はじめに知っておきたいこと
 第1章 〈こころ〉をどうとらえるか
  1 哲学にとっての〈こころ〉、科学にとっての〈こころ〉
  2 精神医学にとっての〈こころ〉
  3 日常生活にとっての〈こころ〉
  4 〈こころ〉は共同の世界
  5 「精神障害」という〈こころ〉のあり方
 第2章 「精神医学」とはどんな学問か
  1 精神医学の誕生
  2 精神医学の黎明期
  3 精神医学は「理系」か「文系」か
  4 正統精神医学
  5 力動精神医学
  6 児童精神医学のはじまり
 第3章 精神障害の分類と診断
  1 分類とはどういうものか
  2 伝統的な診断分類
  3 操作的診断分類
  4 児童精神医学における診断分類
  5 精神医学での「診断」とは何か
  6 「診断」のもつ意味
 第4章 「精神発達」をどうとらえるか
  1 なぜ決定版がないのか
  2 認識の発達、関係の発達
  3 「認識」と「認知」の区別
  4 精神発達の基本構造
 第5章 ピアジェの発達論
  1 同化と調節
  2 知性の発達
  3 シェマ
  4 発達の4段階
  5 精神発達の最終段階
 第6章 フロイトの発達論
  1 小児性愛
  2 リビドー
  3 発達の5段階
 第7章 精神発達の道筋
  1 精神発達の歩み
  2 精神発達を推し進める力
  3 なぜ個人差が生じるのか
 第8章 「共有」の発達としての精神発達
  1 まどろみとほほえみ
  2 啼泣とマザリング
  3 マザリングとアタッチメント
  4 感覚の共有(分化)
  5 首のすわりと探索行動
  6 安心の共有と探索
  7 バブリングと情動の共有
  8 関心の共有
  9 模倣の行為(しぐさ)の共有
  10 しつけと意志の発達
  11 言葉のはじまり
  12 認識の社会化
  13 関係の社会化

第II部 育つ側のむずかしさ 発達障害をもつ子どもたち
 第9章 発達障害とは何か
  1 この本での定義
  2 全般的な発達のおくれ-知的障害と自閉症スペクトラム
  3 発達の分布図
  4 外因・内因・心因
  5 必要条件・負荷条件・決定条件
  6 発達障害と外因
  7 発達障害と内因
  8 発達障害と環境因(心因)
 第10章 発達障害における体験世界
  1 発達の領域分け
  2 不安・緊張・孤独
  3 発達のおくれと言葉のおくれ
  4 認識発達のおくれと孤独
  5 関係発達のおくれと孤独
  6 高い感覚性の世界
  7 感覚世界の混乱性
  8 感覚の混乱性への対処努力
  9 高い衝動性の世界
  10 情動的混乱と対処努力
  11 自閉症スペクトラムと知的能力
  12 発達の歩みのスペクトラム
  13 アタッチメントと自閉症スペクトラム
  14 ひとへの関心、ものへの関心
  15 C領域における体験世界
 第11章 関係発達のおくれにどう支援するか
  1 乳児期における支援
  2 幼児期における支援
  3 学童期における支援
  4 思春期における支援
  5 現代社会と自閉症スペクトラムの増加
 第12章 部分的な発達のおくれ
  1 学習障害とはどういうものか
  2 学業不振のとらえと支援
  3 ADHDとはどういうものか
  4 落ち着きのない子どもたち
  5 ADHDへの支援

第III部 育てる側のむずかしさ 親や支援者はどうかかわるか
 第13章 子育てをめぐる問題
  1 親が育てるわけ
  2 子育ての歴史
  3 現代日本の子育て
 第14章 子育て困難の第一グループ
  1 家庭内暴力~ひきこもり
  2 摂食障害
  3 問題の背景
  4 問題への対処と支援
 第15章 子育て困難の第二グループ
  1 不備な子育てはなぜ生じるか
  2 「児童虐待」という概念の誕生
  3 虐待防止法制定後
  4 子育ての失調への家族支援
  5 子どもへの支援-3つの困難
  6 心理的な問題がもたらすもの
  7 PTSD的な問題がもたらすもの
  8 PTSDの症状にどうかかわるか
  9 発達的な問題がもたらすもの
  10 子育ての失調の予防

第IV部 社会に出てゆくむずかしさ
 第16章 児童期~思春期をめぐる問題
  1 児童期とその発達課題
  2 思春期とその発達課題
  3 思春期の〈性〉の問題
  4 不登校現象のはじまり
  5 不登校現象の増加
  6 学校へ行く意味
  7 現代社会の不登校
  8 不登校への具体的対応
  9 子ども同士の関係の失調(いじめ)
  10 伝統的な「いじめ」と80年代からの「いじめ」
  11 「いじめ」の変化とその社会的背景
  12 規範意識と「いじめ」
  13 学校ストレスと「いじめ」
  14 「いじめ」への対処
 第17章 その他の精神医学的な問題
  1 子どものうつ病
  2 子どもの「神経症性」の障害

 

(本書のページの一例)





 

蒸し返される「不登校は甘え」という根も葉もない批判

不登校の激増が止まらない状況(2023年度34万人)になりました。

不登校への理解や支援が少しずつ浸透してきた反面、メディアでは、相変わらず「不登校は甘えだ」「放置せず学校に行かせろ」という、根拠のない「不登校叩き」が蒸し返されています。

必要なのは、「誰もが安心して行ける学校」

 不登校」のケースの背景や原因は様々です。

 学校環境はそれぞれ同じではありません。交友関係も、家庭環境も、個々の性格や特性も、生育や家族歴、地域なども子どもによって違います。

 子どもは不登校になる背景には、多くの要因が複雑に絡み合っています。

 登校を励ましたり、学校が別室登校で受け入れたりすると少しずつ登校し始める子どもがいると思うと、フツーに登校していた子どもが、ある日突然ぷっつりと登校を止めてテコでも動かないこともあります。

 何年か完全に不登校になっていても、学校以外の場所や家庭の生活の関わりの中で成長してくると、年度替わりのタイミングなどに再登校したり、高校に進学したりすることも珍しくありません。

 また、自分のペースで断続的な登校や別室登校を何年も続ける子どもや、放課後の校庭に遊びに行くだけの子どももいます。

 重篤なケースとしては、不登校という問題に留まらず、学校環境や家庭状況で心身を病んで医療のケアを継続しているケースや、学校や外部機関とのつながりも切れている上に家庭にリソースが少ないケースが多くみられます。「ひきこもり」だとされていても実はヤングケアラーや被虐待のケースだったということもあります。

 

 「不登校」と一言で言っても、それぞれ異なる状況や事情があり、ケースの数だけ様々な「不登校」があると言ってもいいほど一律なものではありません。

 それぞれの子どもの不登校の状況や家庭環境、学校環境などに合わせた支援を丁寧に考えることが、最も子どもの成長につながる実践的な対策なのです。

 

 こうして、現実に起こっている様々なケースの事実を踏まえ、個々の不登校の状況を知れば知るほど、メディアの「不登校叩き」には何の根拠もないことがわかります。

不登校」と一括りにして論じる時点で既に間違いであり、論外なのです。 

 

不登校叩き」に共通している根拠のない攻撃は以下のような内容です

 不登校は親の義務の放棄で、子どもを放置している。

・親が子どもの言いなりになって甘やかしている。

「見守り」は何もしないことで、不登校を長引かせている。

・多少のいじめや嫌がらせに負けていたら将来生きていけない

・今の学校は優しくなった。「厳しさ」が足りない。

世の中に出たら優しくしてもらえない。

不登校の子どもはワガママで「教育」を拒否している。

不登校はすぐに直さないと将来「ひきこもり」になる。

・最初に無理にでも登校させないから不登校が長引く。

(例示:親の証言「無理に登校させて良かった。息子は進学校に進んで成功しています。」)

文科省が「不登校は問題行動ではない」(2016)としたことから急に不登校が増えた。

不登校ビジネスによる典型的な「不登校叩き」

スダチに代表される、不安を煽る悪徳商法まがいな「不登校ビジネス」が横行しています。

スダチ」は今年8月、東京都板橋区と連携と発表された後、多くの批判を浴びて板橋区は連携を中止しました。

 

親子を追い詰め、子どもの生きる力を奪うだけの「不登校叩き」

 このような根強い「不登校叩き」にみられる根拠のない不登校への偏見や差別的悪評が、これまでの長い間、不登校になったことへの親子の罪悪感を醸成し続けてきました。親は自分の養育を否定され、子どもは自己肯定感を奪われてきたのです。

 不登校を支援する学校や支援施設、不登校の当事者の子どもと親たちが長い時間をかけて子どもの自律的な成長を見守りながら不安と闘っている中で、そのことをせせら笑うように更に不安を煽り、焦りを助長する悪影響を与え続けています。

「見守り」は「放置」と繰り返して煽ります

 

 不登校が激増し、子どもの自傷行為や自殺企図も多くなる中で、不登校への理解を示す必要性が多く語られるようになればなるほど、「不登校は甘え」という「不登校叩き」がヒステリックに、声高に一部マスメディアやネット上に溢れ出すのです。

不登校叩き」の主張への多くの疑問

 まず、これらの主張をしている人間が、個々の子どもの状態を学校現場で取材し把握することは不可能です。また、不登校になった子どもの家庭の状況や家族歴などの影響を知ることもできません。それぞれの地域での、今の子育て世代の、親の生活状況や体調、養育の状況を知る由もないでしょう。

 

 それどころか、子どもの生育歴や発達段階の違いや特性が、子どもの行動や成長にどのような影響を及ぼすものかを専門的に学んでいる形跡はありません。

 学校への不適応感から子どもが体調を崩し精神的に不安定になる中で、無理に登校することにどれほどの価値があるというのでしょうか?

 自由なフリースクールや自分のペースで学べる教育形態を学校の代わりとして認めることに否定的なことも共通しています。

 文科省不登校への認識の変化が不登校を増やしているかのような記述も目立ちます。学校が不登校の子どもに向き合って、SCの専門的なみたてを基に対応しようとすることを頭から否定しています。子どもにとって「優しい」対応が悪いような主張が多く、親や学校が子どもを学校に登校させる「厳しさ」が足りないことを「放置」と言い切り、批判し続けています。

 

 彼らの主張では、一様に子どもの言い分を聞くことは「甘やかし」です。子どもの自己主張は認めないようです。大人の「厳しさ亅さえあれば登校できるという根拠はどこにあるのでしょうか?向いている方向はひたすら「再登校」です。

 さらに、不登校を放置すると将来必ず「ひきこもり」になると親を不安に陥れます。青年期成人期の「ひきこもり」の原因の1割程度でしかない「不登校経験」をなぜあげつらうのか疑問です。(第1位は就職後の職場での挫折や退職です)

不登校とひきこもりを結び付けて不安を煽るビジネス

 

 そもそも、不登校への対応が「無理してでも学校に行かせる」一択に帰結するのはなぜなのでしょう。そこまでの思考停止させる理由は何なのでしょうか?

 

 不登校は様々な要因に起因していることを徹底的に無視して、十把一絡げに語るのにはそれなりの「意図」があることを私たちは知らなくてはいけません。

 発信源は、保守系メディア、経済界向けの雑誌記事、ネット保守派層の書き込み、不登校ビジネスの広報に集中しています。

子どもを中心において「不登校」の意味を見つめなおす社会に

 学校に行けない自分を責め、卑下して自分をすり減らし、「死にたい」と希死念慮を抱くに至るまで学校適応を続けることを子どもに求め続ける社会は不健康で不幸な社会です。

 それは大人が健康に生きづらい社会であることも同時に示しています。しかし、それでもなお、子どもを苦しませたくないと素直に思える感情を大人が心の中に残すことができるのは、それまでの人生で健康な営みを積み上げて生きてきたからです。

 

 学校に行きたくない子どもの気持ちをそのまま受け止めた大人が、目の前の子どもの苦しみを自分事として理解しようとしてくれたら、子どもはどれほど日々を生きることに希望が持てることでしょう。

 不登校は、再登校すれば解決する問題ではなく、毎日を健康で明るい気持ちで生きられるかどうかという命の問題なのです。

不登校激増は止まるのか~小学生は10年前の5.4倍に

小中学校は、34万6482人(前年4万7434人増)2023年度:文科省

 

うち小学生13万370人(2万5258人増)、中学生21万6112人(2万2176人増)

10年前(2013年度)の小学生は5.4倍、中学生は2.26倍に

コロナ禍で不登校になった小2Aさん(ケースは実際とは変えています)

今から4年前の2022年の夏休み明けに、小2の女の子Aさんが母親と一緒に適応指導教室の相談面接にやってきました。

Aさんは前年に小学校に入学し1年生の学校生活を楽しく過ごしました。やっと学校にも慣れてきた年度末の3月2日、新型コロナのパンデミックによって全国一斉に突然に学校が休校に入りました。学校が再開したのはそれから3か月後の6月末でした。

Aさんは2年生としての新年度を迎え、分散登校から再開しました。しかし、学校はAさんがやっと慣れ始めた1年生の時の学校生活とはまるで変わってしまっていました。当初は分散登校で新しいクラスの全員が揃うことがありませんし、みんながマスクをしていたので誰が誰なのかなかなかわかりません。授業以外での同級生との交流は制限されて、給食も黙食です。

「三密」(密閉・密集・密接)を避けるために、学校生活のルールはまるで変わり、戸惑うことばかりです。休み時間でも自分の机から勝手に離れて、友達と接して遊ぶこともできなくなり、授業中も先生やみんなの表情が見えないために緊張感が高くなりました。元々自分から声をかけるようなタイプではなくおとなしいAさんには新しいクラスで休み時間に話す人も見つかりません。

困ったAさんは、お母さんとも相談して休み時間は、自分の席で独り「折り紙」を折って過ごすことにしました。同級生の何人かも「折り紙」で遊んでいたそうです。

その後ひと月ほど経った頃、帰りの会で担任の先生が言いました。「今日、折り紙を使って人にいたずらした子がいたので、しばらくの間「折り紙」を持ってきて遊ぶのを禁止します。」と。

Aさんはその翌日から学校に行けなくなりました。

 Aさんの事例を挙げましたが、この年を境に学校に行けなくなる小学校低学年の子どもが急激に増えていきました。あれから4年の歳月が流れ、Aさんは今年6年生になっています。

現在の小学生はコロナ禍の幼児期児童期を過ごした世代

 Aさんの所属している今年(2024)の6年生は、全校の運動会の経験をみても、1年生・5年生・6年生の3回だけです。

 他の学年に目を移してみても、5年生は、幼稚園や保育園の卒園式も省略され、小学校入学を6月まで待たされました。4年生と3年生は、それぞれ年中、年少の終わりの頃に園が休園。その後も約3年コロナ禍の中での園生活でした。2年生は年少が6月以降の入園で、1年生も年少入園から、園生活の前半はコロナ禍の最中でした。

 幼児期・児童期がコロナ禍だった世代の子どもたちには、どれだけ「楽しさのある、変わらぬ安定した生活」があったのでしょうか。手洗い、うがい、マスクとソーシャルディスタンスと共にある生活の中で、友達と遊んで気持ちだけでもぶつかり合うような経験をしたのでしょうか。コロナ前の生活→コロナ禍の生活→コロナ明けの生活。きっと、学校や園での生活の急激な変化や、先行きの見えない生活に多くの不安を感じていたことでしょう。

 コロナ禍の「変則で不安定な日々」が、子どもから安定的な発達・成長の機会や、学校の集団生活への適応力を多く奪ってきたのです。それぞれ子どもの人生の多くを占める3年間は長く不安定なものだったのです。このことは不登校の激増、特に小学生の急増とは無縁ではないはずです。

児童期の子どもの成長・発達

 子どもたちは、小学校に入学して1年間は身体もまだ小さく、慣れない学校生活に重いランドセルを毎日背負って適応しようと張り切って登校します。小学校低学年の2年間は毎日の積み重ねと連続性の中で、学校の集団生活に慣れていくために子どもたちは自分のための安心と自信を少しずつ積み重ねていきます。

 その土台を支えているのが「楽しさのある、変わらぬ安定した毎日」です。「今日一日過ごした経験がきっと明日に生きる」、そのように大きな変化が少ない、基本的に変わらない楽しい毎日が安心と安定を育みます。元々子どもが感じる「時間」は大人のそれとは異なり、もっと1日が長く、細密で、発見に満ちています。ゆっくりで濃い時間と言ってもいいでしょう。

 教員と子どもたちが交流して生み出される学校生活は、川の流れのように一見変わらなくても、その流れの中では様々な変化が少しずつ起こっています。光が織りなす色や、天候が作り出す水の温度や水量の変化、生き物たちの営みなど、変わらない流れにこそ微細な変化が豊かに感じ取れるのです。

 その安定した学校生活と家庭での生活が両輪になって、子どもの発達段階でのそれぞれの成長を紡ぎ出していくのです。

不登校の激増の背景を理解する

 このように考えてみると、Aさんの不登校はよく理解できるはずです。

 それぞれの子どもの持っている性格・特性、生育歴・家族歴は皆異なります。学校生活への適応力にも差があります。一旦コロナ禍のような事態に見舞われた時のストレスの強さに押し出されて、登校できなくなる子どもが増えるのは当然の結果です。Aさんのように、どうしていいのかわからないような辛く悲しい経験をした子どもはたくさんいたのです。

 それでも、自分自身を守って「不登校」を選択し、家庭で休養し保護を受けられた子どもには自然な健康度が感じられます。不登校になってたいへんだったけれど、自分をよく守ったとほめてあげたいです。

 むしろ心配なのは、自分を守れないまま、学校への登校を無理に続けてしまった子どもです。それは、学校のつまらなさを親にぶちまけたり、友達同士で学校生活の愚痴を言ったり、時には仮病でずる休みをしたりできなかった子どもたちです。

 勿論、コロナ禍の分散登校の環境が合っていた子どももいたと思いますが、(実際それまで不登校気味だった子どもが登校している例があります。)苦しさを抱えたまま過剰に適応して登校を続けた子どもも多く、コロナ禍明けの次の大きな変化についていけなくなってしまうケースも多くみられます。

 

 不登校にもなれずに、学習へのプレッシャーを感じ、生きるエネルギーを次第に失って頑張ることが辛くなり、「希死念慮」を持つ子どもが増えています。実際に、リストカットオーバードーズ、自殺企図をする子どもは小学生まで広がっています。

 不登校の激増の背景には、多くの子どもたちの苦悩が見えます。不登校の子どもを無闇に再登校させることではなく、「不登校激増」という子どもに起こっている「現象」を理解しなくては、子どもの健康を取り戻す社会にはならないのです。

学校教育そのものを大きく見直す教訓

 今後、コロナ禍の影響を知らない子どもが中学を卒業し、高校、大学、成人となるまでには15年から20年近くかかるでしょう。それまでの間にまたパンデミックのような事態や、気候変動の影響での災害や大きな地震が起こらない保障は何もありません。世界情勢からみても戦争に巻き込まれないとも言い切れないでしょう。これからの不安定で不透明な社会では、何か起こる度毎に想定外ではすみません。

 私たちができることは、コロナ禍で子どもに起こった事実を分析・評価し、今後の教訓にすることです。それは、日頃から子どもの発育や成長にもっと丁寧に目を向けていく学校教育システムへの変換を意味しています。

 

 50年前の1970年代には200万人前後で推移していた年間出生数は激減し、2022年度には70万人台になりました。数少ない子どもたちに手厚い支援をして大事に育てる社会への転換がいま必要です。「集団指導」主体の教育から、「個」の教育権を中心据えた教育の方法への転換に不作為であってはならないのです。

 仮に、Aさんの2年生のクラスの子どもの数が20人程度で、2~3人ぐらいの大人が学級にいて子どもたちに声をかけながら細かく生活を見ることができていたら、そしてAさんの折り紙遊びの意味を知っている大人がいたなら、Aさんが学校生活の最後の拠り所をなくしてしまうことはなかったでしょう。たとえそれがコロナ禍でも。






 

不登校・過去最高の34万6482人 (前年から一気に 4万7434人増) ~天井知らずの激増つづく

2023年度の公立小中学校の不登校児童生徒数が発表されました(年間30日以上欠席)

全国の合計は、34万6482人(前年度より 4万7434人増:文科省

 

小学生13万370人(2万5258人増)、中学生21万6112人(2万2176人増)

在籍者数の不登校の割合 :小学校 2.14% 中学校 6.71% 合計3.72%

10年前(2013年度)の不登校者数の、小学生は5.4倍、中学生は2.26倍に

 小学生は100人中、1→3人、中学生は3人→7人の割合で激増しています。

 コロナ禍後の急増が目立ちますが、それにしても、学校という入れ物の底が抜けたかのような勢いで増加しています。

 また「34万人」という数字の大きさにも驚かされます。例えてみると、34万6482人は、沖縄の那覇市や、北海道の旭川市などの人口を大きく上回っています。

 

※参考:10年前・2013年(H25)

 小学生 2万4175人(0.36%) 中学生9万5442人(2.69%) 計 11万9617人(1.17%)

子どもの不登校は、保護者の生活への影響大

 学校を休んでいる子どもを家にひとりでおいておけない、付き添い登下校をするなどの理由で仕事を休むことが増えたり、休業退職せざるを得なかったりしている親の苦労はこれまで話題にもされませんでした。通えるフリースクールが遠方のため転居や別居するケースもあります。

 親の収入が減って、フリースクールへの通学のための学費や交通費もバカにならず、通学の日数を少なくしたり交通費を節約するために徒歩で長距離を通ったりしているケースもあります。

 それでも、学校や世間に根強くある不登校に対する無理解や偏見のために、親自身が迷惑をかけているという引け目を感じて、「家庭」への支援が必要であるという声を出しづらい現状があります。家庭への支援を受けないまま、不登校の親たちの多くは、毎日子どもの状態に気を配りながら黙々とサポートを続けているのです。

 保護者が気軽に相談できる学校の支援体制だけではなく、家庭への経済的支援や支援員の派遣、子どもの見守り、送迎などの支援、家庭での学習支援、フリースクールを含む地域の居場所づくりなどの整備が必要です。無暗に学校への再登校を促して焦るより、子どもや保護者が学校ストレスから解放されて健康度を取り戻せる時間が保障されることがとても大切なのです。

 今回、新聞記事で親たちの苦しい状況が報道されたことは遅くもありますが、小さい一歩でもあります。

ため息しか出ない学校の支援の実態

 現在、公立小中学校の多くのスクールカウンセラー(SC)の、その学校での週1回の勤務日(一般的な日数です)は、相談の面接予定で埋まっています。ニーズがあることはその学校の支援体制が機能していることを示していますが、1日7~8時間の勤務に、7~8件の面接が入っているのは今や珍しいことではありません。

 

 主訴は「不登校」が最も多く、その他に発達特性の相談、いじめ、自傷行為、学習の遅れ、親子問題の相談、虐待、性被害など様々なケースも重複して相談業務全体が膨らんできています。

 SCの業務は面接だけでなく、授業中の子どもの行動観察、家庭訪問、教員からの聞き取りやフィードバック、支援会議やケース会議、その日の業務・面接の記録などがあり、勤務時間内にすべてが収まりきらないのが実情です。

 特にSCが中学校中心に配置されていると小学校では、月に1~2日しかSCの勤務日がない自治体も多くあります。(逆に小学校に力を入れて、配置が多い自治体もあります)

 1校当たりの相談件数を考えると、同じSCが週2~3日の勤務をする常勤化のパターンの導入も必要です。(週4~5日勤務で2校担当するなど)

 現在のSCにはほぼ常勤職はなく(名古屋市で常勤化の動きがあります)、不安定な会計年度任用(1年毎更新で3年で雇い止め)の不安定な非正規雇用が一般的です。

 つながっている子どもや保護者にとっては、SCが何年その学校にいてくれるかわからず、年度末毎に切れてしまう不安に駆られます。

 あるベテランSCが業務の話の中で、最近の残業の量に触れながら、ため息交じりに、

「限界ですね。国がもういい加減、本気で20人くらいの少人数クラスにして、教員を増やして、子どもたちを丁寧にみられるようにしなきゃ。ずっと放置ですから、教員も私たちSCも、もう無理ですよ」と呟きました。

 

老朽化して穴が開いた学校の「集団教育」

 1872年(明治5年)に始まる日本の近代教育では、「児童生徒の集団に対して国で定めた内容を教える」という形が150年以上続いています。その時代ごとに軍国教育、民主主義教育と中身は変わっても、「児童生徒の集団」に国が認めた教科書で教育する形は連綿と受け継がれてきました。

 1クラスの定員は、徐々に減って現在は40人学級から35人学級に移行しようとはしているものの、欧米並みの少人数クラスへの歩みは遅れたままです。

 

 「集団」にある一定の価値観の教育をし続けるためには、「集団」に合わせることができる人間だけを集めて教育するのが効率的です。これは、集団の標準的なペースで学習できない手のかかる子どもや、集団に馴染めない子どもたちを一般の集団から排除し、別枠に入れる方が邪魔されず、効果的だという考えです。

 この排除は「区別」でなくれっきとした「差別」です。

 また、不登校とは別の面からみるとわかりやすいので、日本の「インクルーシブ教育」にも触れておきます。

 障害者と共に学ぶ統合教育である「インクルーシブ教育」は、いま国際的な潮流になっていますが、文科省は、一般級の在籍と特別支援教育の在籍を分離したままの「交流」だけの「日本型なんちゃってインクルーシブ」でお茶を濁そうとしています。

 

 大阪府では「原学級保障」という独自の制度があり豊中市では「共に学ぶ」国際基準並みの先進的なインクルーシブ教育を進めていますが、今年5月文科省がいちゃもんをつけ、「支援級で過ごす時間を半分以上にしろ」という、豊中市の取り組みの足を引っ張る通知を出しました。

 今まで共に過ごしてきた「原学級」の席を障害児たちが失う危機が訪れたのです。これは大きなニュースになりました。

※記事はこちら→  https://sdgs.yahoo.co.jp/featured/360.html

 このように、日本では「集団」に馴染んで教育を受けられることが大前提であり、手がかかったり、馴染めないことは「迷惑」で「良くないこと」という価値観が一般的に共有されています。

 「不登校」は「子どもが学校から自分を守る手段として選択できた」と考えれば「良いこと」であり、けして「悪いこと」ではないのに、親子で罪悪感を持ちやすいのは、社会から向けられる厳しい視線があるからです。

 「障害者は「交流」はさせるが同じ「ステージ(在籍)」には入れません」という「分離」を前提の日本型インクルーシブから聞こえるメッセージは、集団に入れない手のかかる不登校児は「まず親がしっかり教育して集団になじめるようにしてください」という排除の論理と根底でつながっているのです。

文科省「校内フリースクール」 開設後の運営は自治体へ丸投げ

 不登校児童生徒が30万人に迫った2022年度を受けて、昨年度文科省はいわゆる「別室登校」に当たる「校内フリースクール」構想を発表して補助金をつけました。

 各自治体は、全校に常駐の学習支援員を配置して「校内フリースクール」を設置し始めています。運営の問題なども出て、今後の方向性を模索している自治体もありますが、利用することで登校している子どもも多くいます。

 しかし、文科省補助金は開設時が主であり、その後の運営費は自治体に丸投げしています。自治体によっては予算規模が小さい所が多く、その後の校内フリースクールの継続に暗雲が立ち込めている自治体もあります。

 急増が止まらない不登校の34万人(2023年度)への対策は、校内フリースクールの運営の安定化と支援員の研修の充実などの中身の充実を図りながらの継続が必要です。開設時は派手にアピールしても、後はそれぞれの自治体でというのでは、文科省の付け焼刃の「やってる感」しか感じられません。やけに文科省が熱心な「ICT」や「DX」の推進よりも、優先すべき課題は山積しています。

画一的な「集団教育」から、「個の特性」に合った教育への大転換を

 この危機にこそ、国が少人数クラスで、必要なスタッフを入れた「個」に合った教育をしていく方向に舵を切らなくて日本の学校教育に希望は見出せません。

 

 「個の特性」に目を向ける教育がある学校では、障害のあるなしに関わらず多くの大人の目で子どもを見ながら教育・支援が行われます。子どもたちにとって学校がより安全で安心できる場所になり、相互理解も進むことしょう。

 その結果「学校」が子ども同士や、教員が共に助け合ってお互いを尊重して過ごす場所になることが、子どもを「孤立」や「人の負担になっている」という「自己卑下」の思いから救い出し、「不登校」、「いじめ」、「自傷行為」「自死」などを確実に減らすことになります。

※小中高校生の自殺者数も高止まり507人(前年7人減)(2023年厚労省警察庁

 そのためには、すべての子どもたちを対象に、個々の支援プログラムの作成、施設の整備、教員の増員、サポートスタッフの配置を適切に行い、校内に子どもの情報を共有して連携するシステムを作ることが必要です。個々に合った「支援デザイン」ができる学校に変貌するのです。また同時に、教育内容やカリキュラムについても国の定めた基準を大幅に見直し、学校の実情に合った柔軟性あるものにする必要があります。

 今ネットやメディアでは、「大人の社会が「競争社会」「格差社会」なのだから、学校だけが「お花畑」になったら子どもが社会適応できないだろう」というような、差別や格差を肯定し容認する本末転倒の論調がまかり通っています。

 しかし、頑張るほどに、子どもも保護者も教員もみんなが疲弊していく学校、希望が消えていく学校では、さらに不登校やいじめ、自殺は増え続けることでしょう。

 また、どんなに待遇改善だけをしても、人を育てる本質に向き合い続けるような教員は育たないでしょう。教員不足の根っこもこんなところにあるのではないでしょうか。

 

 人は相互的な存在です。ひとりだけが幸せにはなれません。

 誰も排除されず、子ども、保護者、教員、学校の支援スタッフそれぞれが影響しあって成長していく場に学校がなることが、惨めさの中で人から生きる力を奪っていく「競争社会」「格差社会」に蝕まれた日本社会を変えていく唯一の道なのです。

 










 

増加する児童虐待(その2)~世代間伝達を止める

虐待の要因と、子どもへの影響、現在の支援状況から、

虐待防止の方向性を考えていきます

虐待の要因

 虐待の背景には、主に①保護者の要因 ②子どもの要因 ③家庭の要因 ④社会全体の様々な要因があるとされ、単純に「親が悪い」と責めても問題解決には至りません。

 

①保護者の要因 ●育児へのストレス・不安 ●保護者自身の精神疾患や特性 ●保護者自身が被虐待の体験者  ●子どもへの不十分な愛着形成などがあります。

 

②子どもの要因 ●出産直後の様々な疾患 ●発達の遅れ、様々な障害  ●生活上の問題行動などがあるとされています。

 

家庭の要因 ●夫婦役割と両親役割のバランスの崩れ  ●外部から孤立していて援助者や相談相手がいない  ●経済的な不安  ●DV などがあります。

 

社会的要因 ●働きながらの子育てに困難が多い社会 ●子育てへの経済的格差 ●激しい競争のある学校教育 ●家庭の個別化などがあります。

子どもへの影響と被虐待児の特性

 乳幼児にとって、養育環境である家庭は世界のすべてです。自他の存在を知り、養育者との愛着関係を基盤に心身ともに成長していきます。各家庭の状況はそれぞれ違っていても、子どもは生きるために環境に適応していくのです。

 安全で安心を得られやすい環境でも、いつ虐待に晒されるかわからない不安と緊張に包まれた環境であっても、他の環境を知らない子どもは、それに適応していきます。

 虐待環境であっても、そこで生きていくために、子どもは持てる力のすべてを使って虐待環境に適応しようとします。このような適応のありようが、被虐待児の言動を理解していく「カギ」になります。その特性は大きく3つに分類されます。

(虐待環境への適応による3つの特性)

1,防衛反応

子どもが、虐待という著しく不適切な環境に置かれて育った場合、子どもが心身を守るために身につけていくのが過剰な「防衛反応」です。

学校でちょっと注意されるとフリーズしてしまう、他の子どもが強く叱責を受けると顔色が変わる、極端に怖がるなどの反応がみられます。

虐待環境に適応して育った子どもにとって、「一般的な環境」は不適応環境であるという認識が必要です。「一般的な環境」に適応するためには「お試し行動(リミットテスティング)」をして、再び自分が虐待被害に合わないかどうかを確かめる必要があるのです。

また、虐待の恐怖から自分の心を守るために、自分の中に別人格を作り出し、虐待状況から逃避したり、意図的に健忘したりする「解離」が起こることもあります。

 

2,特異な学習

虐待の環境で否応なく獲得してしまう学習の特異性を指します。

長期に渡る虐待環境での生活によって、環境の変化や刺激に過剰に反応する、逆に他の多くの子どもが反応する事柄にまったく興味関心を示さない、などの反応がみられます。

養育者との愛着形成が不十分で「基本的信頼感」が内面化されていないために、表層的な人間関係しか築けない傾向がみられます。

また性的虐待を受けた子どもには、異性への拒否反応が強く出たり、同性とも信頼関係が築けなかったりすることがあります。性的で大人びた言動がみられることもあります。

将来、大人になって家庭をもち、子育てをしていくためには、信頼できる外部からの支援やトラウマケアを受けながら、過去の経験を振り返って受け止め、基本的信頼感に基づく人間関係を内面化し、精神的に安定的した生活を送っていくまでのいくつものハードルを長い時間をかけて乗り越えなくてはいけません。

 

3,社会的スキルの喪失

一般的にその年齢で経験してくるはずの遊びや社会生活体験がなく、その場に合った適切なソーシャルスキルが獲得されていない様子が頻繁にみられます。集団へのなじみにくさがあり交友関係が広がりにくい様子もみられます。

失ったすべてをやりなすことはできませんが、外部からの支援を受けながらいくつかの子ども時代の遊びや経験をし直すことで自分の立っている場所への自己理解が進んでいく可能性があります。

 いずれの場合も、子どもにとって被虐体験は、他人との人間関係をつくって人生を生きる上での大きなハンデであり、トラウマ体験(心の傷)です。「複雑性PTSD」による精神疾患などの心身の不調に一生苦しまなくてはならない人たちもいます。自死に至るケースも珍しくありません。

 また、被虐待児を無関心に放置することは、その人のみならず虐待の世代間伝達にもつながりかねません。周囲から見えにくい児童虐待への早期での気づきと、救済が社会の急務です。

不足する虐待への対応と社会的支援

 「虐待」への対応をする機関としては「児童相談所(児相)」が良く知られています。情報があれば家庭訪問を行い、親からの聞き取りをする権限を持っています。子どもの一時保護や短期、長期の施設への入所措置もできますが、どこの地区の児相も虐待ケースの相談がとても多く、手一杯の対応をしている状況です。本来、児相は家庭の育児や発達の相談や検査など、様々な相談に対応しているので業務が膨らんでいくばかりです。

 

 実際に一時保護や施設入所によって、多くの子どもたちが虐待から逃れられているのは事実ですが、抱えている件数があまりに多いために、虐待のリスクがあっても危機的と判断されない限り在宅措置になることも多くあり、実際に児相が家庭訪問をしているにも関わらず虐待死する子どもが後を絶たず問題になっています。

 

 そんな中、2022年の児童福祉法の改正に伴って、国の「子育て短期支援事業」が始まりつつあります。

 それを受けて各自治体では、子どもを養育することが一時的に困難となった場合や一時的に子育てから離れて親子の心身を休める(レスパイトケア)が必要な場合に、子ども・保護者が短期入所できるショートステイ事業や、夜間子どもを預かるトワイライト事業を始めています。(各地域の児童養護施設等を利用)

 それぞれの自治体の居住者であれば、児童相談所とは別に希望者が申し込み、各自治体の窓口の判断で利用が決まる仕組みは新しい試みです。まだ、利用者の規模が小さいので、今後広がってほしい取り組みのひとつです。

以下はある自治体の事業例です。

ショートステイ・トワイライトステイ事業>

児童養護施設において、お子さんをお預かりします。
詳細はお気軽にお問い合わせください。

  • 「親族に頼れず夜遅くまで子どもだけで留守番をさせざるを得ない」
  • 「子育てに疲れて子どもを傷つけてしまうかもしれない」
  • 児童を養育している保護者が精神的に不安定なとき
  • 疾病、環境上の理由などによって、家庭での養育が一時的に困難なとき、など。

対 象 : 町に住民登録がある満3歳から18歳未満の児童(※)

利用料 :   1泊2日の料金

ショートステイ (食事付、最長6泊まで)※日帰りも要相談

    町民      4000円(以降1日2000円追加)

    非課税世帯   2000円(以降1日1000円追加)

    ひとり親世帯  1000円(以降1日500円追加)

    生活保護世帯        0円

 

トワイライトステイ(原則17時から22時)

           町民             2000円

      非課税世帯   1000円

      ひとり親世帯    500円

      生活保護世帯     0円

 

※政府は、2歳児未満や慢性疾患児も対象。通学の付き添いなどの支援も例示しています。

虐待に至る状況を作らないための親への支援を

 先日、母親が小学生の兄の首を絞め、5歳の妹を浴槽に沈める(妹は死亡)という痛ましい事件が横浜で起こりました。帰宅した父親が発見したそうです。日頃見かける一家の姿は仲の良い家族で、母親が育児で悩んでいる様子はなかったそうです。日常的な暴力痕もなく、交流していた家庭の子どもたちは「やさしいお母さんだ」と話していて、周囲の衝撃は大きいとのことです。

 外からでは本当のところはまったくわかりませんが、子どもが犠牲になる事件が、なぜ繰り返し起こるのでしょうか。

 

 虐待状況に陥り、子どもが傷ついた事件後には決まって親を責める声が聞かれます。その殆どが、子育ての機能をもてない家庭環境を作った「親」の自己責任で切り捨てられます。また、手遅れになった児相の対応が批判されます。

 しかし、それでは何も変わりません。児相の機能を高めたとしても、虐待を生む家庭状況が増えれば、子どもたちの被害が減ることはありません。また、少し想像力を働かせてみればわかることですが、虐待するに至った多くの親たちも深く傷ついています。家庭の中で虐待が起きる状況を減らさない限り、誰も幸せにはなれないのです。その道のりを遠くしているものは何なのでしょうか。

 

 妊娠して出産し、乳幼児の育児が始まる初期の段階から、広く親の状況に合った支援システムが地域社会には必要です。

 現在は、産科と保健所の乳幼児健診や養育相談、保育所を中心とした取り組みが中心ですが、実際には個別化して親族の協力が得られにくい家庭では、養育の負荷が親だけに重くのしかかっているケースも多くみられます。

 養育のストレスや不安は親自身の気持ちを弱くしていきます。どうしていいかわからない不安定な状況の中での養育の連続が、親から子どもを受け入れる余裕を奪います。

 

 社会の変化によって「家庭」の姿が変わっても、社会全体の雰囲気は保守的な「あるべき家族像」を押し付けがちです。過去の価値観に捉われた「家庭」や「家族」であり続けようとしてひび割れてしまう家庭も実際にあります。虐待はそんな状況下で起こることが多くあると言われています。

 多くの虐待ケースの親に共通しているのは、子どもの個としての人格を尊重していない点にあります。親の良かれと思う「しつけ」や「教育」が、子どもの言い分も聞くことなく一方的な押し付けになるとき、それは「暴力」になるのです。「暴力」は必ずエスカレートしていきます。

 児童虐待に至る前に、苦しんでいる親を支援できる手立てこそ必要なのです。

虐待の世代間伝達を止める

 「被虐体験をもつ親は、わが子に虐待をしてしまう」と言われますが、必ずしもそうではありません。確かにそのようなケースは多く紹介されていますし、被虐体験の親の虐待リスクが高い側面は否定できません。

 しかし、被虐体験があっても早期に保護されてケアを受ける、大人になってからの自分を理解してくれる友人との出会いがもてる、などの経験を通して、自分のトラウマ体験を客観化し、自己コントロールする力を身につけ、自分の体験を反面教師にして、健康的な子育てをしている人たちも多くいます。

 虐待する親に反発して家出をしたり、自分から保護所に行ったりできた子どもは、精神的に早く親との決別ができるので支援を受け入れて立ち直るケースが多いと言われていますが、幼い子どもほど虐待環境に適応して、親の依存を受け入れてしまうので、なかなか親を断ち切ることができません。どこまでも「親子」であろうとしてしまうのです。

 そして長期に渡る虐待に晒されることで社会生活そのものが困難なケースもあります。後者が家庭を持って子育てをする場合は高リスクになります。さらに被虐体験を誰にも知られず、語らずにきた人たちのリスクは高まります。

 子育てに、より多くの人が関わり、見守ることができる地域社会の中で、虐待を早期発見して虐待の世代間伝達を止めることが、社会の虐待対応の最終目標とも言えるのです。



 

増加する児童虐待(その1)~「虐待」とは

児童虐待相談件数が急増しています

2022年は年間約22万件で、10年前(2012年)のおよそ3倍

背景には、コロナ禍後に顕著になっている「貧困」「孤立」による経済格差の負の連鎖があり、大きな社会問題になっています

児童虐待と「しつけ」の違い

 家庭の養育で行われる「しつけ」は、子どもに社会の規範を内面化させるために、褒めて強化する行動と、叱って消去する行動とを親(養育者)が一定の基準で教え、子どももそれを理解して規範に合った行動を身につけ、大人との相互的な信頼感を形成していくものです。

 「虐待」は親(養育者)のその時の気分で叱る基準が変わったり、「しつけ」と称して暴力をふるったり、子どもに理解しがたい行為を強制したりすることで、子どもの心身に深い傷を残すもので、「しつけ」とは根本的に異なるものです。

 

 児童に対する虐待行為の内容は、身体的虐待、性的虐待ネグレクト、心理的虐待の4種類があり、法によって禁止されています。(「児童虐待の防止等に関する法律」(児童虐待防止法)2000年11月20日施行)

1,身体的虐待とは

 子どもの身体に外傷が生ずるおそれのある暴行を加えることをいいます。身体的虐待は、児童虐待の中でも最も相談件数が多く、虐待行為としては、叩く、殴る、蹴るなどだけでなく、熱湯をかける、煙草を押し付ける、首を絞める、風呂で溺れさせる、高いところから投げ落とす、布団蒸しにする、異物を口に入れる、逆さ吊りにする、冬場に戸外に長時間放り出すなど、生命に関わる危険なものもあります。    

 擦り傷、切り傷などの外傷や打撲の内出血が残ることが多く、近隣に悲鳴や怒号が聞こえるなど、地域や保育園、学校でも見つけやすい虐待であると言うこともできます。 ただし、身体的虐待による外傷は、衣服で隠れるような腋の下や内腿、腰など簡単に見えない場所や、肩の後ろや耳の後ろなど、普通の生活では怪我をしにくい部位にあることもあります。

2性的虐待とは

 性的虐待とは、子どもへの性交や、性的な行為の強要・教唆、子どもに性器や性交を見せる、などが上げられます。子どものヌード写真を撮って販売する、子どもが誰かと性行為をすることを強要する、性行為によって得られた金品を利用するのも含まれます。

 性的虐待は、最も見えにくい虐待です。子どもに接する保育士や教員にとっては「疑うこと」に対して心理的に極めて強い抵抗感があります。本人が告白するか、家族が気づかないとなかなか顕在化しません。実父や義父などから「お母さんに話したら殺す」などと暴力や脅しで口止めをされているケースや、実母や義母などの女性から男の子に対して行われているケースもあります。開始年齢が早期の場合、子どもは性的虐待だと理解できないこともありますが、実際に乳幼児時期から発生しています。

 性的虐待は、また、保護者以外の同居している大人やきょうだいから受けた被害についても、保護者がこれを放置した場合、保護者が子どもの監護を著しく怠ったものとして、「ネグレクト」に該当します。

3,ネグレクトとは

 「ネグレクト」とは保護の怠慢による虐待です。児童の心身の発達を妨げる著しい減食、又は長時間の放置、保護者以外の同居人による身体的・性的・心理的虐待の放置、その他保護者としての監護を著しく怠る虐待行為です。

 子どもが心身とも安定した発達の妨げになるような放任や、不適切な育児も含まれます。 子どもの年齢や能力、家族の生活状態によって、同じ行為であっても「ネグレクト」であるかどうかには違いが生じます。

 ネグレクトは子どもに対する攻撃的な言動がないために 親子関係が良好に見え、境界線を定めにくい虐待ですが、保育士や教員からは、比較的疑うことが容易な虐待です。季節に合わない、いつも同じで汚れが目立つ服装や持ち物、忘れ物の多さ、提出物の遅れなどから違和感持つことも多くあります。

4心理的虐待とは

 「生まれなければよかった」「死んでしまえ」「大嫌い」・・・「心理的虐待」は、大声や脅しなどで恐怖に陥れる、無視や拒否的な態度をとる、著しくきょうだい間差別をする、自尊心を傷つける言葉を繰り返し使って傷つけるなど、子どもに著しい「心理的外傷(トラウマ)」を負わせる言動を繰り返し行う虐待です。

 ドメスティックバイオレンス(DV)の目撃も含まれます。子どもの心を死なせてしまうような虐待、と理解すると良いと思います。

 また、宗教2世に見られるような人生の選択権を与えない支配的な養育や、「エジュケーショナル・マルトリート(教育虐待)」にみられるような、一方的な親の価値観の教育の押し付けも心理的虐待に当たります。

 さらに、それに留まらず、過剰に子どもに干渉し、社会的交流を含めた生活のあらゆる面において、ヘリコプターが「頭上をホバリング」するように子どもを厳格に管理下において監督・監視するヘリコプターペアレントも存在し、大人になっても子どもの心身を蝕み続けてしまう深刻なケースもあります。

ここで、心理的虐待の一例をみてみましょう

毎日新聞(2024年10月24日付)特集連載記事「ひとりっ子社会」から

「母の呪縛に心身壊された」を紹介します 

過度な期待 応え続け

「勉強もスポーツも」。さらには「見た目も」――。母から過度な期待を寄せられた一人っ子の女性。「母の期待通りに生きなければ」と過食嘔吐(おうと)を繰り返し、身も心もボロボロになっていった。重圧に苦しんだ女性が2児の母となった今、思うこととは――。

 

専業主婦の母が女性を産んだのは40歳。高齢出産で授かった一粒種を母は溺愛した。父は単身赴任しており、ほとんど顔を合わせることはなかった。母と娘が密着した「母子カプセル」のような環境で女性は育った。

 

小学生になると母は「美術の先生になりなさい」と繰り返し言うようになった。美術科の教員になることは、母の見果てぬ夢でもあった。女性はアイドルになる淡い夢を抱いていたが、胸の奥に押しとどめた。

母の希望は「勉強ができてスポーツができる「王道女子」になること。剣道に英語、塾・・・・・・。女性は毎日習い事をさせられた。

 

母の望みは学業やスポーツだけにとどまらなかった。「一重は可愛くない。中学を卒業したら整形するからね」。母は一重まぶただったら女性に常々こう話していた。

中学卒業後の春休み、母は「予約しておいたから」と女性を美容外科に連れて行った。女性は言われるがまま、二重まぶたにする手術を受けた。

 

当時について「不安や怖い気持ちがあるだろうけど、なんの感情も起きなかった。心が凍っていた」と振り返る。手術後、母は「良かったね。こんなことをさせてあげる母親はいないよ」と誇らしげだった。そんなは母の姿に、女性も「いいお母さんなんだな」と思い込んでいた。

 

母の望み通りに剣道を続けてきた女性は、中学も剣道の強豪校を選んで「越境通学」した。だが、突出した実力がないとわかると母は「もう剣道はしないで」と突然、部活をやめさせた。高校は自分の希望でダンス部に入ったが、母は「そんな遊びみたいな部活」とけなし、一度もステージを見に来てくれなかった。一方で胸を突き刺すこんな一言も言い放った。「剣道をやっていないなら痩せなきゃ」

 

この頃から、体に異変が表れ始めた。食事を制限するダイエットにのめり込み、過食嘔吐を繰り返した。母の期待に応えようとする気持ちと、「自分の好きなようにしたい」という思いが交錯し、心身ともに限界を迎えていた。

もともと50キロ台前半だった体重は30キロ台半ばになった。体調不良にさいなまれながらも、母が望む美術大学の合格を目指して予備校に通い、東京都内の美大に進学した。

入院 自分と向き合う

実家を離れての一人暮らし。物理的に母と距離を取れるようになる中、転機となる出来事があった。手術した二重まぶたが取れてしまい、再手術のために再び美容外科を訪れた。麻酔を前に、気付けば大泣きし、医師にこう叫んだ。「本当はやりたくない。でもやってもらわないと実家の母に会えない。」初めて自分の意思を口にできた瞬間だった。

 

大学卒業後は地元に帰り、母の夢だった中学の美術科の教員になった。剣道部の顧問になった女性はある日、練習中にアキレス腱を断絶してしまった。歩けなくてつらいはずだったが「剣道をやらなくて済む」とうれしさがこみ上げた。

 

入院中、これまでの人生を振り返り、ある思いが浮かんだ。「母の希望通りに生きてきたけど、先生も剣道もやりたいことじゃなかった。何で母に縛れなければいけないのか」。自分が本当は何をやりたいのか向き合おうと考え、教員は辞めた。

 

その後、25歳で結婚し、2児をもうけた。2013年ごろからネット交流サービス(SNS)でイラストを投稿するようになり、フォロワーが増えると、出版社から「漫画を描かないか?」と声が掛かった。今は「グラハムの子」という作家名で漫画家として活動している。

 

母とは距離を置き、今では毎年正月に顔を合わせる程度の距離の関係になった。数年前、連絡もなしに訪ねてきた母に、女性はこれまでの本音を語った。「実は、ずっとやりたいことをやれていなかった」。母は話の途中で帰ってしまったが、それ以来、干渉してこなくなったという。

 

母の呪縛に苦しんだ過去から、育児では、自分と子どもとの境界線を引くことを大切にしている。「子どもが違う意見を持っていても、気持ちを尊重してあげたい。だって違う人間なのだから。どんな自分でも愛してくれるははでありたい」と願っている。

【記事、中田敦子】

(以上、新聞記事から)

子どもの人生を「壊す」虐待

 母親が、幼いころから自分の理想を子どもに押し付け、子どもが親とは「別人格」の人間であるという自覚を持てずに「良い母親」であると錯覚し続けた事例です。

 そういう母親にならざるを得なかった母親の生育からの事情はあるにせよ、子どもの意思を確かめることを一切せずに、選択肢のない奴隷やペットのように子を扱い続け、子どもの心身を破壊してきたことは許しがたい行為です。

 少子化が定着し、ひとりっ子が増えてきている現状では、個別化した閉鎖的な家庭が多く、「親子のカプセル」の中だけの常識や価値観の押し付けが、子どもの自由な成長を阻害していくことが多くなりつつあります。

 子どもは親の所有物でも、ペットでもなく、玩具でもありません。幼児期から子どもは親とは別の人格を持った社会的存在であり、親は社会で自立していくまで養育する義務があります。親は子どもと話し合い、子どもを理解し、信頼関係を築きながら安心できる日常を保障して養育します。その中で、子どもは自己主張と自己決定が尊重され、大人としての人格を形成して自立していくのです。

 親の価値観がどうであれ、社会は移り変わり、子どもが大人になる頃には社会の価値観も変わっていきます。どの時代にも若い人たちには、社会の状況を広く捉え、他者とのつながりを作り、主体的に考えて生きていくことが求められています。

 親の心理的虐待は、子どもから大人になるための多くの過程や機会を奪ってしまう行為です。このことを親個人の問題に矮小化することなく、けして他人事にしないことが、私たちがこの問題に向き合う第一歩なのです。

→次回「増加する児童虐待」(その2)に続きます。