「不登校統計」が示す「不登校」と、そこから見えてくる学校の現状
「年間欠席日数が30日以上」という基準
「不登校」は、文科省の調査で「年間の欠席日数が30日を超える」ことで統計の対象になるという一定の基準があります。
遅刻早退が多くあったとしても。出席日数は少しでも多くカウントしてあげたいのが教員側の心情でしょう。(部活動だけの参加や、SC(スクールカウンセラー)の面接だけに登校するなどを頑なに「出席」認めない一部の教員はいますが)そういう意味でも子どもが登校した日数がほぼ正確に記録されていると考えられます。
したがって「不登校」は、年間200日ほどの要出席日数のうち30日以上、約15%以上の欠席があると「不登校」とカウントされ、年間授業日数の基準の35週を基に考えても、ほぼ毎週かそれ以上に欠席がある状態像を想定でき、調査統計の妥当性もあると言えそうです。
統計の裏側を読む
ただし「統計」は、その数字の表面だけをうのみにせず、その数字の裏側をどう読むのかが大切です。
不登校の場合、エネルギーの回復を図って多くを家で過ごす子どもばかりではありません。回復期を迎えて外出することが増え、学校や外部機関へのつながりを持ちはじめる子どももいます。例えば別室登校を続けることや、適応指導教室や認められたフリースクールなどへの参加、SCや教員との面談のための登校、放課後の部活動への参加などがそれにあたります。それらを原則的に「出席扱い」にしている学校が殆どで、表面上の「欠席」が減って年間30日以下になれば統計上は「不登校」ではなくなるケースが多く存在しています。
実際に、教室には1日も入らず、適応指導教室と学校の別室登校を併用して出席扱いになり、記録上は年間無欠席の「実質は不登校」の中学生もいました。その生徒は公立高校受験の調査書の記載で「不登校」扱いではなくなったために、長欠の枠(学習成績=内申点を欠く者として当日試験のみ参考)を使えず、学校の定期テストは別室で受けていましたが日常の授業には出ていないために、実力よりも低い内申点で受験せざるを得ませんでした。(この生徒は合格しました)
登校しているが教室には入れない、学校に代わる場所に通所しているなど、実際には日々活動している「隠れ不登校」ともいうべき児童生徒が一定数存在していることを知った上で不登校の統計を見ていく必要があります。
2023年度の小中学校の不登校は34万6482人(文科省)。「教室」が不適応で不登校状態になっている実数はもっと多いとみていいでしょう。
また年間30日以上の欠席ではなくても、現実的には欠席が増えてきている場合は学校や親が心配して、別室登校やSCとの相談などの「不登校支援」を受けている場合も多くあります。また、遅刻早退の多さなどで不登校予備軍の傾向を示している子どもも一定数みられます。いわゆる「裾野」の広がりの部分です。
支援の必要な子どもはもっと多く、困窮する学校
この統計の「年間欠席数30日以上」という明確な一定の基準のラインがあるがゆえに、数値に表れない多くのことが想像され、どのくらいの規模のどのような支援形態が学校に必要なのかも見えてきます。
統計からは、全国平均で少なくとも小学校では1クラスに1人以上、中学校では2人以上の統計上の不登校児童生徒がいて、その上に登校への不適応感を抱えた裾野グループが存在し、さらに「隠れ不登校」もいる状況が想像できます。
実数は偏りがあるため、クラスによっては不登校の数が平均よりもずっと多いこともあり得ますし、それにプラスして不登校以外のことで支援を必要としている子どもも多くいます。
こうして少し考えただけでも、支援が必要な子どもたちに対する学校の支援体制が追い付かない現状が想像できます。それに追い打ちをかけるように教員の過重労働による休職者あることがあちらこちらの学校から聞かれるほど疲弊してきています。
このように学校の窮状が「不登校の統計」からは少しずつ見えてくるのです。
「統計」が語るメッセージ
調査統計処理の専門家から「統計処理は、数字が語っていることを読むことが大事で、そのためには読むことができるように調査を取り、統計処理しなくてはいけない」と伺ったことがあります。
基準が客観的で明確で、調査に公平性・妥当性が保たれていると、そこに書かれていない別の状況が推測しやすく、読み取れるものにバイアスがかからずにフィードバックされ、教育行政や社会に還元されて影響を与える可能性があります。
「不登校の統計」は、そこからは「不登校」のひとりひとりの児童生徒の様々な状況が見えるものではありませんが、「不登校」という断面から見える学校の現状について多く語っています。このことは、不登校支援の問題に留まらず、学校全体の支援体制や教員の教育姿勢、さらに教員の定数や働き方など職場の課題に至るまでの検証と、これからの学校教育への問題提起にもつながっています。
「老朽化」した学校教育の転換期
多くのケースを通して今の子どもの状況をみていると、子どもたちが余裕をもって程よく学校と付き合って、楽しみの多い小中学校時代を過ごすことがだんだん難しくなってきているように感じることが増えました。
中学受験ブームに火がついて、学習がますます進学のための競争の手段の色を濃くしています。親たちの期待に応えるため、学校への適応が学習成績次第で決まるかのように、子どもたちの目に映り始めていることを危惧しています。
塾や習い事で多忙な子どもの生活や、ゲーム中心の遊び方の変化なども子どもたち同士の結びつきの弱め、クラス内の子どものギスギスとした余裕のない人間関係を生み出し、集団の自助力を低下させています。
その結果、学校に過剰適応してしまう子どもと、不適応になる子どもとの双方が増え、前者が「自傷行為」をし、後者が「不登校」になっていく傾向もみられます。また、子ども同士の「いじめ」の加害・被害、「性加害・性被害」なども増加しています。
不登校統計が示す数値は、潜在的な不適応の膨大な裾野の広がりを示しています。「不登校」の止まらない増加傾向は、子どもの学校での「過ごしにくさ」の全国的な広がりを表しているのです。
これらの多くの課題の存在と、学校の網の目からこぼれる落穂を拾うセイフティネットが既に追い付かない状況が示しているものは、社会の状況と解離した学校教育の「老朽化」そのものです。
落穂そのものを減らすにはどうしたらいいのか。子どもたちが安心して心から楽しく過ごせる居場所になる学校にするには何が必要なのか。
教育の根本理念の検証と学校教育の改革を本気で実行すべき「転換期」がやってきています。もう残された時間はありません。