リフレーミング(reframing)してみよう

~「リフレーミング」は心理学の家族療法の技法で、これまでと異なる角度からのアプローチ、視点の変化、別の焦点化、解釈の変更という「フレーム」の架け替えによって、同じ「絵(状況)」でも違った見え方になり、自分や相手の生き方の健康度を上げていくことを言います。この能力は誰しも潜在的にもっていると考えられています。 これから私が書いていくことは、ジャンルを超えて多岐に渡ることになりますが、自分の潜在能力を使って、いま私たちの目の前にあること、起こっていることの真実に少しずつ近づいていけたらと思っています。

会食恐怖症(前編)~学校給食の強要から始まることもあります

会食恐怖症は、不登校のきっかけにもなっています。(Iさんのケース)

(ケースは実際のものとは変えています)

会食恐怖症とは

 食事を楽しむ人たちは世の中に多くいます。グルメと言われる人でなくても「食」への多少のこだわりを持つ人や、気に入った店の味に常連になる人も当たり前のようにいて、「会食」は人との交流を拡げ、楽しむ大事な社交の場にもなっています。

 しかし、「会食」を楽しめない人たちも社会の片隅にいることを知っておくべきでしょう。

 

 「会食恐怖症(Deipnophobia)」とは、人前で食事をすることに強い恐怖を感じる症状のことを指します。レストランなどでの外食や学校の給食などの場面が該当します。「Deipnophobia」という言葉は、「deipno(晩餐)」と「phobia(恐怖症)」を合わせた造語です。この症状は、社交不安障害(Social Anxiety Disorder , SAD)の一種であると言われています。(会食恐怖症と社交不安障害は、異なる疾患として診断されます。)

 

 具体的には、人前で食事をする緊張が過剰に高まることで、食べ物が喉に詰まったり、口からこぼしたりしてしまうのではという不安感や、自分が周囲の人から笑われたり嫌われたりするのではないかという恐怖感がある状態をいいます。また、他人の視線を気にしすぎて硬くなり、食事を取り分ける、口を拭うなども困難になり、食事中に動悸、手汗、吐き気などの身体反応が現れることがあります。

 原因としては、過去の会食中のトラウマ体験や、会食自体が持つ社交性への圧力などが挙げられます。また、他人から否定されることを恐れ、周囲の人々より自分自身が劣っていると感じる社会不安障害の症状の「自己評価の低さ」が原因の場合もあります。

 これらの要因が複合的に絡み合って引き起こされるため、症状に合わせた個別のアプローチが治療には必要とされます。

 また、摂食障害過食症などの症状がある場合にも、会食恐怖症が現れることがあります。(自分の体型を気にするところから始まる「摂食障害」とは異なる疾患です。)

理解されなかったIさんの、苦闘のはじまり

 Iさんの幼稚園はお弁当だったので、小学校の給食の時間はIさんにとって、教室から廊下へ、校舎内全体に「給食のにおい」が立ち込めていく初めての経験でした。

 就学前の健診から療育に繋がって、発達障害のグレーゾーンと診断されたIさんには味覚・嗅覚に強い感覚過敏がありました。特定のにおいのある食べ物や場所がとても苦手のために両親も事前に学校にはそのことを伝えていました。

 

 Iさんは給食の時間に緊張と苦痛を感じていましたが、食べられそうなものを選んで少しずつ口に運びました。時間内に完食することは到底できません。

 そのために1学期の途中から、家庭でも徐々に少食になり、元気を失っていくIさんをみて、母親は担任と話し合って給食を免除し、別室で自宅から持っていくお弁当を食べられるように提案しましたが、担任は「Iさんは今とても頑張っているところなのでもう少し続けましょう。」と受け入れてもらえませんでした。

 夏休み前にIさんは、腹痛を訴えて学校を休むことが増えてきましたが、学校の方針は変わりません。そんなある日、Iさんは「学校を休ませて」と母親に言いました。

 

 学校を休み始めてそのまま夏休みに入りました。両親は夏休み中に少しIさんの体調が回復することを願いましたが、Iさんは人前での食事へ恐怖感が強くなっていて、家庭での食事も進まず、外食は一切できなくなりました(会食恐怖症)。外出にも不安があるため、家族旅行に行くことも諦めました。

 給食時の恐怖の体験が学校生活全体のトラウマになってしまったIさんは、小1の夏休み明けから、中学3年生までの9年間、断続的な登校を繰り返す不登校を続けることになります。(Iさんの苦闘は後編で詳しく扱います。)

「給食」に救われる子どももいれば、「給食」に追いつめられる子どももいる

 給食が本来もっている機能としての食育の意義や、栄養バランスの取れた健康的な食事の提供は義務教育にとって大切なことです。子どもの貧困、ヤングケアラー、家庭の養育の問題が顕在化している現在の給食の意味も大きく、給食に救われている子どもたちも多くいます。

 しかし、持病によって皆と一緒の給食が摂れない子どもたちがいるのと同じように、味覚、嗅覚、聴覚(咀嚼音)などの感覚過敏によって皆と同じように給食を摂ることが難しい子どもたちも一定数います。現状では、感覚過敏自体が認知されにくく、ただの偏食やわがままのように受け止められ理解されずに追いつめられてしまうことも多くあります。

 

 また、学校では、時間内に食べ残しを出さない給食指導をする担任が力のある学級経営をしていると評価するような風潮が古くからあると聞いています。給食を子どもたちの口にただ詰め込むのではなく、本来の給食には皆で会食を楽しむ意義も謳われています。

(学校給食法:(学校給食の目標)第二条の三  学校生活を豊かにし、明るい社交性及び協同の精神を養うこと。)

 もっと子どもたちのペースで食べられる余裕のある給食時間と環境づくり、個々の苦手への配慮などが自然に行える雰囲気を作ることが何よりも大切です。

 本来「生きること」「育つこと」に直結している「食事」が、Iさんのように苦痛、恐怖になることは、子どもにとって自己の存在すら不確かなものになってしまうのではないかと心配になります。

 また、給食が直接のきっかけになっていない別の理由で不登校になった子どもたちでも、給食が食べられなくなるケースも多く見られます。おそらく、「学校」という不信や恐怖のあるものから提供される食事を、安易に自分の身体の中に入れられないという無意識の防衛(免疫機能)が働くのだろうと思われます。

 このように人の「食」というものは「育ち、生きる」ことに直結しているからこそ「安心して食事できる環境」が大切だと、子どもたちは教えてくれています。

 

~後編(不登校に苦しんだIさん)に続きます。