リフレーミング(reframing)してみよう

~「リフレーミング」は心理学の家族療法の技法で、これまでと異なる角度からのアプローチ、視点の変化、別の焦点化、解釈の変更という「フレーム」の架け替えによって、同じ「絵(状況)」でも違った見え方になり、自分や相手の生き方の健康度を上げていくことを言います。この能力は誰しも潜在的にもっていると考えられています。 これから私が書いていくことは、ジャンルを超えて多岐に渡ることになりますが、自分の潜在能力を使って、いま私たちの目の前にあること、起こっていることの真実に少しずつ近づいていけたらと思っています。

不登校29万9048人をリフレーミングする・不登校を人数だけで、十把ひとからげに論じることは、一人一人の子どもの現実を見えなくしてしまうことに繋がります

不登校29万9048人

 文科省が今年10月に発表した2022年度の「問題行動・不登校調査」調査によると、全国の小中学校で年間30日以上の欠席をした不登校児童生徒数が29万9048人になったそうです。(昨年度比22.1%増、10年連続増加、小学校10万5113人、中学校19万3936人 全在籍数の3.2%)

 少子化が国内問題にされている中で、不登校の子どもは僅か5年前の2017年度の14万4031人の二倍超になり、今や30万人に限りなく近づいています。具体的に数字をイメージすると、全国の中学校の各クラス2名以上いることになり、日本の人口の3.2%と考えると、静岡県一県の人口を超えるほどです。

根強い「不登校」への無理解と偏見

 これだけ考えても、コロナ禍の影響が大きかったことや、これまで多くの課題を放置してきた日本の学校教育に大きな地殻変動が起こっていることが推察されます。文科省からは学校の支援体制の強化やフリースクールの利用などセーフティネットの必要性が明確に述べられるようになり、多少なりとも今後の施策に変化が現れるかもしれません。

 また、それに反発する動きも見えてきています。滋賀県東近江市小倉市長が滋賀県の首長会議で「不登校の責任の大半は親にある」「(フリースクールを学校と同等に認めることは)国の根幹を崩しかねない」などと発言したことが大きなニュースになり、多くの国民からは怒りの声が上がっています。このことは、不登校への無理解や偏見がこの国に根強く残っている事実を示しているだけでなく、学校教育を受けることが国民の権利でなく義務であり、そうでない国民を認めようとしない戦前の国家主義が脈々と戦後80年近く経た今もどこかで教育として受け継がれてきた証でもあります。

29万9048人は、ただの数字なのか

 しかし、こう論じるほどにとても虚しい思いがこみ上げるのは私だけではない筈です。それは、もし仮に自分がこの29万9048人の一人だとしたらどうでしょう。「私」はただの「数字」でしかないのでしょうか?

「私」には親が付けた名前があります。「不登校の〇〇さん」という名前ではありません。

「あることが原因で悩んでいて、きっかけとなる出来事が起こって学校に登校できなくなってしまいました。今はまったく登校していません。心身ともに不調を抱えています。」

と、想像するとわかるように、一人一人が不登校になる原因は、一人一人さまざまですべて違っていると考えるのが自然です。

 全国でどれだけ多くの子どもが学校の問題、学習の問題、友人関係、人間関係、家庭の問題などと原因を分類されていても、「私」にはきっと「私」だけに理由があったり葛藤があったりします。そのことは誰とも同じではないし、「私」にしかわかりません。

不登校に苦しみ続けたAさん

 私が知っているケースで、当時中学生3年生で不登校だった少女のAさん(実際の事例を変えています)は、2年生の二学期になって同級生の嫌がらせを受けるようになり、元来他人のことに心を痛めるような優しく繊細な性格でもあったために、ストレスが身体化してひどい頭痛、不眠などに悩まされ始め、それでも登校し続けた彼女は徐々に朝起きられなくなり、学年末にはまったく登校できなくなりました。

 程なく保護者が学校に相談し、担任の勧めで外部のフリースクールに入りました。学校に行けるようになりたいという強い思いを持っている真面目なAさんは、つらい心身を動かして3年生からフリースクールに通えるようになり、徐々に元気を取り戻していきました。周囲は元気になったAさんを見て喜んでいました。夏休み前に再登校をし始めて、教室にも時々入り皆と過ごすこともできるようになって夏休みを迎えました。しかし、夏休みの中頃に事件が起きました。

 Aさんは突然自宅の二階のベランダから飛び降り自殺を図ったのです。幸い命はとりとめましたが、大けがをして入院したのです。その後、Aさんはフリースクールや中学校に通うことなく卒業を迎えたと伝え聴きました。どんなに苦しんでいたのかと思うと今でも胸が痛くなります。

 「不登校」一言でその数字の「1」になっている人間への理解はできません。それどころか一人一人の苦悩や背景、生育歴・家族歴は一人一人異なっているのですから、一般化して考える捉え方では誤謬を生むことでしょう。

 例えば、「不登校」の子どもでも「登校」している子どもでも等しく受けている「学校行くことは良いこと」「学校を休むことは悪いこと」という無言の圧力が、不登校からの立ち直りを周囲の皆が応援していたAさんを追いつめて苦しめていたのではないかと思うのです。私たちは子どもの心をもっと繊細な感性で見守る必要があるのだと思います。

統計の数字の意味を生かせるか?

 統計には統計の意味があり、子どもたちの生きづらさの根本的な社会の問題を少しでも解決の方向に動かすための貴重な裏付けとなるでしょう。でも個々の人間に何が起こっているのかという理解と想像力があってこそ「数字」は生かされていくのです。

 

 かつてソビエト連邦が1929年から行った集団農業化(コルホーズ)によって、ウクライナの自営農家の土地や作物がすべて国家に徴収されて起こった「ホルドモール」という人為的大飢饉によってウクライナの人口の20%が餓死しました。また、その後のソ連第二次世界大戦独ソ戦終了までに約2000万人以上の自国民の死者を出しましたが、ソ連の最高権力者(共産党中央委員会書記長)で独裁者であったスターリンは次の言葉を残したとされています。

「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字にすぎない」

この言葉に「不登校29万9048人」を重ねてもう一度見直してみる必要があります。