リフレーミング(reframing)してみよう

~「リフレーミング」は心理学の家族療法の技法で、これまでと異なる角度からのアプローチ、視点の変化、別の焦点化、解釈の変更という「フレーム」の架け替えによって、同じ「絵(状況)」でも違った見え方になり、自分や相手の生き方の健康度を上げていくことを言います。この能力は誰しも潜在的にもっていると考えられています。 これから私が書いていくことは、ジャンルを超えて多岐に渡ることになりますが、自分の潜在能力を使って、いま私たちの目の前にあること、起こっていることの真実に少しずつ近づいていけたらと思っています。

不登校の急性期・回復期・成長期~学校以外は何処へでも行ける元気な不登校になるためには

不登校の原因は十人十色ですが、学校に行きづらくなる「急性期」や、休んで少しエネルギーが回復し始める「回復期」、心身ともにエネルギーが高まって暇を持て余し始める「成長期」という流れは多くのケースでみられるものです。

今回は不登校の理解のために、ありがちなエピソードや実際の話など取り交ぜて書くことにしました。もちろんすべてのケースに当てはまるものではありません。

不登校の、「安定期」と「不安定期」とは?

「安定期」と「不安定期」は交互に現れるのが一般です。

 精神的に最初に不安定になるのが、状況の変化が起こる「急性期」です。後に詳しく書きますが、苦しいことのみ多い時期です。その途中で再登校を焦ると、成長変化がみえないままの短期休養だけで子どもも頑張るので、不安定が外から見えにくく、突然の「折れ」に繋がることもあるので十分注意しなくてはいけません。

 「急性期」の変化が収まって、次に事態が動かなくなる「回復期」がやってきます。変化が長期に渡って起こらないのでそれ自体は「安定期」であるとも言えます。

 新しいステージへの変化が起こるときには必ず「不安定期」に入ります。「回復期」から次の新しいステージに入る時を「成長期」とすると、変化を伴う「不安定期」がまたやってくると考えます。そこを乗り越えた先に再び新たな「安定期」が待っています。

 このように「不安定期」を乗り越えるためには、長期の「安定期」を過ごして、心身の「エネルギーの回復と成長」を遂げる必要があります。「安定」と「不安定」は交互にやってくるのがフツーです。それは、生きる力をつける成長・発達の証でもあります。

苦しさだけの「急性期」

 不登校の「急性期」は、登校渋りとして現れやすく、子ども自身も体調を崩すほどに深く悩みますが、親や学校、友人、親戚を巻き込んだ大騒ぎになることも珍しくありません。

 「急性期」のありがちな始まりはこんな感じでしょうか?

 

 学校に行きたくないのは「何が理由なのか」「どうしてなのか」と本人を問いただして原因の究明に力を注ぎ、何とか学校に行かせようとする親や先生たち。つい「明日から行くよ」と言ってしまう子ども。 

 そして、前の晩の登校の準備、次の朝の起床から戦いは始まります。

 「行くって言ったのに、どうして朝起きないのか」、布団に潜り込んでの抵抗、起きてもパジャマのまま泣きじゃくる子ども、なかなか出勤できない親、タイムリミットで学校に欠席や職場への遅刻の連絡、「すみません。すみません。」と謝る親。

 やっと着替えさせ、手を引いて学校へ、「気持ち悪い」「お腹が痛い」となかなか歩かない子ども、「先生待ってくれているよ、ちゃんと歩いて」と声を荒げる親。

 校門の前の曲がり角のフェンスを掴んで「帰る」と叫んで動かない子ども。「母子分離できない甘い親」と言われそうで、つい親も先生と一緒に二人がかりでフェンスから引きはがす。「行こうね」に「うん」と答えてしまって先生に連れていかれる子ども。まさに「急性期の地獄絵図」です。

 小学校低学年では毎日教室の中まで連れていき午前中教室で過ごす親もいます。この根気は何処から出てくるのかと本当に敬服します。

 欠席した子は、家で昼頃からだいたい元気になります。帰宅後の子どもも比較的元気に過ごします。でも、やはり夕食後くらいから徐々にテンションが下がってきます。

 子どもも自己防衛を開始します。家の中で、様子を見られないように押し入れ、キャンプ用テント、手製の段ボールハウスなどに閉じこもって生活し始めたり、学校時間に沿った生活を遠ざけ、平穏な静けさを求めて夜行性の生き物に変身したりします。
 不登校の「急性期」は「つらいこと」しかありません。

 随分前の話ですが、小4で不登校になったY君のお母さんが疲弊している姿を見て、一年前の小3から不登校になった同級生のK君が、「Y君のお母さん!1年経てば楽になりますよ」と慰めたのを記憶しています。

「学校に行ってないのに」という枕詞が待っている「回復期」

 欠席が安定的に?続くようになると、諦めも半分入りつつ、親は、我が子がなぜ不登校になったのかを自問自答し続けます。昼夜逆転もほぼ定着。押し入れ、テント、段ボール暮らしもすっかり板について、リビングに出て過ごす時間も増えてきます。食欲も回復、軽い筋トレ、YouTubeでダンスの練習などを始める子どももいます。親との何気ない会話も増えてきます。

 「昨日親子で冗談を言い合って笑ったら、顔が引きつっちゃって、笑ったの半年ぶりだったんです。」と嬉しそうに話してくれた母親がいました。「何にも悪いことしてないんですから笑って良いんですよ」と声をかけました。


 以前より確実に元気になってきた子どもの姿を喜びながら、親の心は複雑です。最近は子どもの生意気な言葉にイラっとくるようになってきました。ちょっとした口喧嘩もするようになりました。子どもが、親を馬鹿にした言い方に我慢できず、とうとう言ってしまった。「そんなに元気なら学校に行きなよ。学校に行ってないくせに偉そうに。」

 自分から話題にするまでは、学校のことは言わないようにしようと自分で決めていたのに・・・子どもの顔が少し青ざめたように感じたとき、子どもの口から出てきた言葉に打ちのめされることになります。「あ~やっぱ「学校に行け」。結局それしか言えないんだね。」

 がっくりと肩を落として来談した親が話します。「昨日、地雷を踏んじゃいました。なんか試されてるんですかね?今日は、まだ口をきいてません。部屋に籠っちゃってます。元に戻った感じです。」私は「大変でしたね。でも一回くらい言ってしまっても、簡単に元には戻りませんよ。今までどおり見守りましょう。フツーの親子喧嘩みたいですし。」と慰めます。「なんだったら先に謝ってしまったらどうですか?」
 「回復期」の親の見守りはつらい修行のようです。子どもにとっては「学校に行ってないくせに」「元気なのに」などと言われやすい時期です。なかなか「元気でごめんなさい」とは言えません。

 次のステージに何が待っているのかは別にして、元気であることが「次」を導き出します。不登校の子どもにとっては、毎日が「休日」ではありません。学校に行っていない自分との闘いに日々なのです。「学校に行ってないくせに」闘っているのです。ですから、土日祝祭日はお休みが必要です。夏休み・冬休みには、ゆっくり休んで旅に出て「リフレッシュ」です。

 この時期に回復を促進するのは、落ち気味の体力を回復させながら外に定期的に出かけられる居場所ができることです。それは中断していた習い事、塾、フリースクール適応指導教室などの決まった大人がいて安心して楽しめる所でもいいし、親と買い物を楽しんだり、美術館巡りをしたりするのもいいでしょう。

 中学生くらいになると一人で映画やアニメショップに出かけますし、遠くまでイベントに行くこともあります。また乗り鉄撮り鉄、バスマニアなどは言うまでもなく熱心にどこまでも出かけて、年齢を超えてマニア同士の交流を深めるのです。

 こうして周りの心配を他所に「不登校ライフ」を楽しめるようになるといよいよ生きる力がついてきます。まさに学校以外は何処でも行けるようになっていきます。江戸時代までの日本ならまったく問題なしでしょう。

自己評価を上げて、自己決定力をつける「成長期」

 学校以外何処でも行けるくらいになるのは理想ですが、用事があって出ようと思えば出られる程度でもOKです。それぞれの安心できる時間帯に(平日の昼間なら知り合いに出会わない、下校時に重ならない、土日なら子どもでも不信に思われない等)外出できるようになり、家での生活リズムも家族との関わりが自然にある生活で、食欲・睡眠が安定して体調も良くなれば、口には出さねど、子どもは単調な生活を変える新しい挑戦をあれこれ考え始めます。

 親もタイミング良く、学校情報や友人の情報、その他諸々の情報をさり気なく話題にして「きっかけ」作りをします。釣りの「こませ」(撒き餌)に似ていますね。でも、子どもはなかなか行動を起こしはしません。子どもが「慎重」であることは、これまでの学びの成果です。自己理解できている証拠です。簡単に「学校行ってみようかな」という筈もありません。

 この時こそ親は子どもの行動観察を定点観測すべきです。些細な変化を見逃さずに、子どもと接していきます。段ボールハウスやテントは既になく、部屋の整理、模様替えや断捨離の開始はかなり有望な変化です。ファッションの変化や化粧品の購入、親に貰ったものの返品などがあることも良い傾向です。

 子どもは親を喜ばせるために生きているのではありませんから、合法であればある程度の変化は親の意にそぐわなくとも笑って?受け入れなくてはいけません。「受け入れられること」がどのくらい自己評価を上げるものなのかは、受け入れられない惨めさを知っている人間だけがわかる感覚です。

 こうして子どもが決意した時に、やっとの思いで言葉になって表出されたことを喜び、心から支える事ができたら、どれだけ救われることでしょうか。結果はどうでもよく、やってみることができる意志が成長そのものなのです。仮に、もし自分の意志で学校に1日だけでも行って来たら、それはその人の中での「奇跡」として、ずっと忘れずに生きていけると思うのです。「不登校だから登校は1日だけだけどね」と笑って暮らせるようになって欲しいと思います。

 

 私はある日の適応指導教室の帰りがけに、5~6人の中学生女子が頭を寄せ合って真剣に話しているのを傍で聴いていたことを思い出します。その中の一番お化粧上手な中心的存在の中3のAちゃんが、皆に向かって熱弁を振るっていました。

「ウチらはさ~結局不登校じゃん?今の中学ではマジでどう足掻いてもフツーにはやれないんだよ、やるつもりもないけど(笑)。高校は合ったとこ行ってさ、今は楽しめば良くない?今、学校行ってる奴だって高校やめりゃ不登校だろ~。次の帰りは皆でカラオケ行くか~」わっと明るい笑いが広がりました。