リフレーミング(reframing)してみよう

~「リフレーミング」は心理学の家族療法の技法で、これまでと異なる角度からのアプローチ、視点の変化、別の焦点化、解釈の変更という「フレーム」の架け替えによって、同じ「絵(状況)」でも違った見え方になり、自分や相手の生き方の健康度を上げていくことを言います。この能力は誰しも潜在的にもっていると考えられています。 これから私が書いていくことは、ジャンルを超えて多岐に渡ることになりますが、自分の潜在能力を使って、いま私たちの目の前にあること、起こっていることの真実に少しずつ近づいていけたらと思っています。

不登校に生きる希望をみる~コロナ禍での不登校の爆発的増加は、学校教育の危機かもしれないが、人間が生きることについては悲観するだけの材料ではない

少子化の中での「不登校」の激増、自死件数の増加が意味するもの

 文科省が発表した2022年度の全国小中学校の不登校児童生徒数29万9048人のうち専門機関への相談がないケースは約11万4000件と訊くと更に深刻さが増します。でも裏返して考えると18万5000件(61.8%)は専門機関への相談をしていることになります。

 取りあえずは「見える所」に来られた子どもたちと、まだ「見えない所」にいる子どもたちがいる訳です。そして、まだカウントされていない、息を潜めて登校し続けている相当数の不登校予備軍が存在しているのは確実です。

 また、2022年度には小中高の子どもたちの「自死数」が年間500人を超えました。日本の10代の死亡原因のトップは「自死」です。(多くの先進国ではトップは「事故」です。)

 日本では、1994年に行政の少子化対策が始まってから約30年経ても子どもの減少は加速度的に進み、年間の出生者数は1994年の123万人から2022年度は80万人を切り77万人(43万人減)になりました。30年間で三分の二を切ったということです。

 行政の少子化対策がいかに場当たり的で、本質からズレていたものだったのかを明確に示しています。そして30万人に届きそうな不登校の子どもの数を単純に並べてみると、学校教育や社会の中で、コロナ禍をきっかけに何かが地滑り的に崩壊し始めていると考えてもおかしくありません。

「早期の回避」(早逃げ)のススメ

 「回避行動」は、有効な防衛反応の一つです。逃げ出すことで我が身を守り、生きる残る可能性を残そうとしているとも言えます。困難に直面した時、人は困難に立ち向かうだけではなく、助けを求めたり、そこから逃げ出したりすることができます。ただ、人間の社会では困難に立ち向かうことだけが特に美徳として扱われやすいのです。

 おそらく国家や支配管理する側にとっては都合のいい道徳観なのでしょう。

 人間ができる「立ち向かうこと」「助けてもらうこと(HELPを出す)」「逃げ出すこと(回避)」の三つの選択の中で一番勇気と能力が必要であると考えるからかもしれません。

 確かに自分の力だけで立ち向かって解決できるに越したことはないでしょうが、二つめの「助けてもらうこと(「HELPを出す」)が出来るのはその人の人脈やコミュニケーション能力があり、自分が助けられる価値がある人間だと思えなくてはなりません。ですから「助けてもらう」ことができる人間には高い能力と自己評価が必要なのです。また、「HELP」を出して相談することは大変勇気がいることでもあります。

 三つめの「逃げ出すこと(回避)」には再挑戦の可能性を残します。あえて今は自滅せず、自分を温存することにもなるでしょう。確かに怯えているだけかもしれません。でも次に望みを残せることを選択するにはそれなりの勇気と打算も必要です。三つの中では一番ハードルが低いかもしれません。

 こう見ていくと、苦しくても学校に登校し続けるだけが選択ではなさそうです。苦しい時に早めに誰かに相談したり、学校を休んだりできることはその人の力量の一つなのです。そして「逃げ出すこと(回避)」は、折れてしまう前に、手詰まりになった最後の手段としての意味も大きいと思います。是非使って欲しいと思います。

「困難に立ち向かって登校を続ける美徳」にダメ出しをされ追いつめられる「不登校

 様々な要因で子どもたちは不登校になります。まさにケースバイケースです。しかしどのケースにもほぼ共通してみられるものが一つあります。それは「自己評価の低さ」です。最近の教育現場でよく使われる言葉で言えば「自己肯定感」の低さと捉えていいと思います。なぜでしょうか?

 それは誰もが知っていることです。今の日本の社会が、不登校が良くないことで、逃げた(回避した)弱い人間で、負け組だという風潮を根強く持っていることに他なりません。

 親もきょうだいも祖父母も親戚も本人も、不登校であることを恥じ入り悩み続けるのです。家族の中でも不登校を隠し続ける家庭が未だにたくさんあります。

 学校の欠席連絡の電話口で「すみません」と謝り続ける親を毎日見て、子どもはきっと思うことでしょう。

 ぼくは(わたしは)親の期待を裏切った落ちこぼれの悪い子だ、皆に迷惑かけるお荷物だ、役に立たない無価値な人間だ、いない方が良い人間だ、生まれてこなければ良かったのに、と。

 折れて不登校になる前にいわゆる過剰適応してきた、親への承認欲求を強く持った良い子たちほど自己評価を下げます。この子たちにとっては、不登校になり始めた時期と、回復期に再登校し始める時期が最も危険な時期と言えるでしょう。

不登校の多くは命を守るための自己防衛の回避行動です

 学校は社会の縮図です。人間関係のトラブルや集団への不適応、学習の遅れやセクハラ、パワハラ、差別や暴力、障害への無理解など多くのストレスが学校には包含されています。また、家庭にも様々な養育環境があり複雑を極めます。

 多くの子どもたちが大事に見守られる環境に出会ったり、支え合う仲間を得たりして成長しているのも事実です。でもすべての子どもに等しく成長のリソースが振り分けられているわけではありません。未熟な子どもゆえに、過酷な生活環境によって取り返しのつかない心の傷を一生背負う可能性もあるのです。未熟であるがゆえに、そこから何らかの形で自己を防衛し回避しない限り、折れて壊れていくしかないのです。

 不登校は「回避行動」の一つの形だとも言えます。すべての不登校がそうである訳ではないでしょうが、殆どの場合が当てはまります。

 耐えて、耐えて、追いつめられて、誰にも言えずにいる時間が長くあります。

 何か学校を休む「きっかけ」があったとしても、それまでにコップの水は溢れかかっていることが多いと思います。「回避行動」を防衛機制と考えれば、避難が早いほど重症化せずにすみ、機能不全に陥らないということです。

 ここに命を守り、生きる希望が残るのです。