リフレーミング(reframing)してみよう

~「リフレーミング」は心理学の家族療法の技法で、これまでと異なる角度からのアプローチ、視点の変化、別の焦点化、解釈の変更という「フレーム」の架け替えによって、同じ「絵(状況)」でも違った見え方になり、自分や相手の生き方の健康度を上げていくことを言います。この能力は誰しも潜在的にもっていると考えられています。 これから私が書いていくことは、ジャンルを超えて多岐に渡ることになりますが、自分の潜在能力を使って、いま私たちの目の前にあること、起こっていることの真実に少しずつ近づいていけたらと思っています。

不登校を治すより、学校を直そう(その2)~親が困ったら、気軽にいつでも相談できる学校に

相談のハードルが低い「教育相談窓口」は、不登校の有効な初期対応になります。

学校の教育相談の現状

 これまでの学校は、親が気軽に子どもの相談する場所ではありませんでした。

 子どもに問題があると教員から親に連絡をして話し合ったり、スクールカウンセラー(以下SC)との相談を紹介したりすることが今までの主流です。相談の主体が学校にあり、親から急に相談を申し出られると、「クレームか」と学校は身構える傾向もまだみられます。

 今はSCの教育相談が定着し「学校だより」などでも相談日を明示するようになってきていますが、相談日は決められていて、親にとってタイムリーな相談ができにくい状況です。また、「気軽に相談する」という雰囲気はまだなく、相談のハードルが少し高く感じられると思います。

 最近は、地域の交流も少なくなり、学校外の相談機関のハードルも依然として高いので、子育てでちょっと気になっていることや、親の関わり方などについての悩みを親が独りで抱え込んでしまいがちです。

 両親で協力して子育てをしたり、子育てをする友人たちと日頃からコミュニケーションが取れていたりする人ばかりではないので、実際に孤立感をもちながら子育てをしている親も多くいます。そして、その多くが母親であるのも日本の現実です。

 例えば母子家庭の母親が子育ての不安や心配を相談したくても、仕事のシフトの空き時間に親が駆け込める「教育相談窓口」としての機能が今の学校には十分ありません。学校が、親の生活の視点に立って、親が「相談したい」という気持ちをもっと大切に扱わなくてはいけません。

 しかし多くの母親は文句も言わず、不安を抱えたまま子育てをしています。その背景には、学校のシステムの問題だけでなく、「孤立するような環境で子育てをする親が身勝手で悪い」という「自己責任論」が蔓延する社会があることも忘れてはいけません。

 不登校や問題行動、子どもの不調について悩む母親にとって、身近にある学校が一番の相談場所になったら、それだけでも気持ちがずいぶん楽になるはずです。

親から気軽に相談される学校になるために

 SC(スクールカウンセラー)との相談日は、現在、中学校で週に1日、小学校は月に1日が一般的です。相談件数に比べて業務日数が少ないために、面接がほぼ予約で埋まってしまい、飛び込みの相談ができにくい事情もあります。

 教員は担任を中心に、子どもや親の困りごとにも日常的に対応をしていると思いますが、業務量が多すぎて相談になかなか時間が割けません。

 

 不登校に限らず、親が早くタイムリーに相談できていたら、傷口が広がる前に子どもに早期対応できていたかもしれないというケースはとても多くあります。

 何かあってから相談するのではなく、親が学校の日常的な困りごとや不安を相談したい日に相談できる「教育相談窓口」を機能させることは喫緊の課題です。

 常駐できるSCの配置で「子育てや子どもの相談」を、専任の相談担当で「その他の学校での手続き・質問などの相談」ができる体制で、親が気軽にいつでも相談できる「教育相談窓口」をつくり、学校の支援体制の中で機能する体制が早急に必要です。

 

 また、日頃から、保護者のための「子育て学習会」を定期的に学校で行ったり、登校渋り、不登校の保護者のための「親の会(自助グループ)」を運営したりすることも、学校の相談機能を相互的に高めていきます。

 子どもたちの課題を、学校と保護者が向き合って話し合いの中で解決をしていく「社会モデル」としても学校が重要な存在意義をもつことになります。

不登校を個人の問題に矮小化せずに、親と共に考える学校に

 現在の学校への不適応の多発は、「学校教育のあり方」が問い直されていることを意味しています。日本が近代公教育としての学校制度を定めた「学制」頒布(1872,M5年)から150年以上経過して、中身の変化はあっても、受け継がれてきた骨格がいよいよ時代に取り残されようとしています。

 

 現在の、コロナ禍を契機にした不登校の激増は、学校が社会の変化に対応できなくなった歪のひとつの現れです。

 昨年、「不登校の責任の大半は親にある」という滋賀県東近江市小倉市長発言(滋賀県首長会議)があり多くの批判を浴びましたが、いまだに訂正・謝罪もありません。

 公教育は常に正しいという恣意的なプロパガンダを、自治体行政の長が確信犯的に言い放った影響は消えていません。学校教育の問題を、個人への問題に矮小化するのは悪辣でお門違いの認識です。

 責任を親になすりつけるのは終わりにして、日本の教育が曲がるべき角を曲がらずに来てしまったことに今こそ気づく時です。子どもや親の目線で学校をリフレーミングするラストチャンスです。

親や家庭を孤立させない役割を担う義務教育

 子どもの登校渋りが始まると、毎朝の欠席連絡で親たちの苦しみが始まります。

子ども起こす。登校前の準備をしているのか。登校するのか、しないのか。欠席連絡をいつの時点で入れるのか。仕事の時間を気にして、家にいる子どもの昼食の心配をして、仕事中も定期的に電話やメールで連絡を入れる。

 これだけをとってみても、不登校はただの子どもの欠席ではなく、家族の生活を一変させていく事態であることがみてとれます。家庭の中でそれまで日常を支えていた「学校」そのものが、機能不全を起こすのです。

 その原因やきっかけも様々で、複合的な要因がそれぞれにあります。「〇〇が悪い」と単純な悪者探しをしている間は、子どもの理解も深まらず、立ち直りの端緒につくこともできません。

 

 確実に家庭の日常の変化はストレスになり、その積み重ねの時間は親子の疲弊を生んでいきます。リソースが少ないと、徐々に孤立していく家庭も多くあります。「親がダメだから」「学校批判ばかりするから」と、学校が安易に家庭との関係性を切ってしまうと、体力がない家庭は孤立の坂道を下っていきます。

 子どもの課題に改善がみられなくても、ケース会議で現状を把握し、中学校卒業後のことも見据えて支援をしていくのは、義務教育の最低限の責任です。学校にとってどんなに厄介な子どもでも、親でも、家庭でも、関係性が切れない努力をしてなくてはいけません。課題を解決することよりも、課題を前提に親子にどう向き合っていけるのかが重要です。

 今の社会では、学校だけが、親の了解があれば無条件で家庭訪問ができる機能をもっています。その意味を今こそ再認識するべきです。

 それらの労力は学校にとって並大抵なことではありませんが、この苦しい経験があることによって初めて、学校は、「教育相談」に自ら来談する親たちに対して、心からの敬意と感謝をもって接することができるのです。

 かくして、「困りごとを気軽にいつでも相談できる教育相談窓口」は、不登校や問題行動への最良の初期対応になっていくのです。