不登校の激増が止まらない状況(2023年度34万人)になりました。
不登校への理解や支援が少しずつ浸透してきた反面、メディアでは、相変わらず「不登校は甘えだ」「放置せず学校に行かせろ」という、根拠のない「不登校叩き」が蒸し返されています。
必要なのは、「誰もが安心して行ける学校」
「不登校」のケースの背景や原因は様々です。
学校環境はそれぞれ同じではありません。交友関係も、家庭環境も、個々の性格や特性も、生育や家族歴、地域なども子どもによって違います。
子どもは不登校になる背景には、多くの要因が複雑に絡み合っています。
登校を励ましたり、学校が別室登校で受け入れたりすると少しずつ登校し始める子どもがいると思うと、フツーに登校していた子どもが、ある日突然ぷっつりと登校を止めてテコでも動かないこともあります。
何年か完全に不登校になっていても、学校以外の場所や家庭の生活の関わりの中で成長してくると、年度替わりのタイミングなどに再登校したり、高校に進学したりすることも珍しくありません。
また、自分のペースで断続的な登校や別室登校を何年も続ける子どもや、放課後の校庭に遊びに行くだけの子どももいます。
重篤なケースとしては、不登校という問題に留まらず、学校環境や家庭状況で心身を病んで医療のケアを継続しているケースや、学校や外部機関とのつながりも切れている上に家庭にリソースが少ないケースが多くみられます。「ひきこもり」だとされていても実はヤングケアラーや被虐待のケースだったということもあります。
「不登校」と一言で言っても、それぞれ異なる状況や事情があり、ケースの数だけ様々な「不登校」があると言ってもいいほど一律なものではありません。
それぞれの子どもの不登校の状況や家庭環境、学校環境などに合わせた支援を丁寧に考えることが、最も子どもの成長につながる実践的な対策なのです。
こうして、現実に起こっている様々なケースの事実を踏まえ、個々の不登校の状況を知れば知るほど、メディアの「不登校叩き」には何の根拠もないことがわかります。
「不登校」と一括りにして論じる時点で既に間違いであり、論外なのです。
「不登校叩き」に共通している根拠のない攻撃は以下のような内容です
・不登校は親の義務の放棄で、子どもを放置している。
・親が子どもの言いなりになって甘やかしている。
・「見守り」は何もしないことで、不登校を長引かせている。
・多少のいじめや嫌がらせに負けていたら将来生きていけない。
・今の学校は優しくなった。「厳しさ」が足りない。
・世の中に出たら優しくしてもらえない。
・不登校の子どもはワガママで「教育」を拒否している。
・不登校はすぐに直さないと将来「ひきこもり」になる。
・最初に無理にでも登校させないから不登校が長引く。
(例示:親の証言「無理に登校させて良かった。息子は進学校に進んで成功しています。」)
・文科省が「不登校は問題行動ではない」(2016)としたことから急に不登校が増えた。
スダチに代表される、不安を煽る悪徳商法まがいな「不登校ビジネス」が横行しています。
「スダチ」は今年8月、東京都板橋区と連携と発表された後、多くの批判を浴びて板橋区は連携を中止しました。
親子を追い詰め、子どもの生きる力を奪うだけの「不登校叩き」
このような根強い「不登校叩き」にみられる根拠のない不登校への偏見や差別的悪評が、これまでの長い間、不登校になったことへの親子の罪悪感を醸成し続けてきました。親は自分の養育を否定され、子どもは自己肯定感を奪われてきたのです。
不登校を支援する学校や支援施設、不登校の当事者の子どもと親たちが長い時間をかけて子どもの自律的な成長を見守りながら不安と闘っている中で、そのことをせせら笑うように更に不安を煽り、焦りを助長する悪影響を与え続けています。
「見守り」は「放置」と繰り返して煽ります
不登校が激増し、子どもの自傷行為や自殺企図も多くなる中で、不登校への理解を示す必要性が多く語られるようになればなるほど、「不登校は甘え」という「不登校叩き」がヒステリックに、声高に一部マスメディアやネット上に溢れ出すのです。
「不登校叩き」の主張への多くの疑問
まず、これらの主張をしている人間が、個々の子どもの状態を学校現場で取材し把握することは不可能です。また、不登校になった子どもの家庭の状況や家族歴などの影響を知ることもできません。それぞれの地域での、今の子育て世代の、親の生活状況や体調、養育の状況を知る由もないでしょう。
それどころか、子どもの生育歴や発達段階の違いや特性が、子どもの行動や成長にどのような影響を及ぼすものかを専門的に学んでいる形跡はありません。
学校への不適応感から子どもが体調を崩し精神的に不安定になる中で、無理に登校することにどれほどの価値があるというのでしょうか?
自由なフリースクールや自分のペースで学べる教育形態を学校の代わりとして認めることに否定的なことも共通しています。
文科省の不登校への認識の変化が不登校を増やしているかのような記述も目立ちます。学校が不登校の子どもに向き合って、SCの専門的なみたてを基に対応しようとすることを頭から否定しています。子どもにとって「優しい」対応が悪いような主張が多く、親や学校が子どもを学校に登校させる「厳しさ」が足りないことを「放置」と言い切り、批判し続けています。
彼らの主張では、一様に子どもの言い分を聞くことは「甘やかし」です。子どもの自己主張は認めないようです。大人の「厳しさ亅さえあれば登校できるという根拠はどこにあるのでしょうか?向いている方向はひたすら「再登校」です。
さらに、不登校を放置すると将来必ず「ひきこもり」になると親を不安に陥れます。青年期成人期の「ひきこもり」の原因の1割程度でしかない「不登校経験」をなぜあげつらうのか疑問です。(第1位は就職後の職場での挫折や退職です)
不登校とひきこもりを結び付けて不安を煽るビジネス
そもそも、不登校への対応が「無理してでも学校に行かせる」一択に帰結するのはなぜなのでしょう。そこまでの思考停止させる理由は何なのでしょうか?
不登校は様々な要因に起因していることを徹底的に無視して、十把一絡げに語るのにはそれなりの「意図」があることを私たちは知らなくてはいけません。
発信源は、保守系メディア、経済界向けの雑誌記事、ネット保守派層の書き込み、不登校ビジネスの広報に集中しています。
子どもを中心において「不登校」の意味を見つめなおす社会に
学校に行けない自分を責め、卑下して自分をすり減らし、「死にたい」と希死念慮を抱くに至るまで学校適応を続けることを子どもに求め続ける社会は不健康で不幸な社会です。
それは大人が健康に生きづらい社会であることも同時に示しています。しかし、それでもなお、子どもを苦しませたくないと素直に思える感情を大人が心の中に残すことができるのは、それまでの人生で健康な営みを積み上げて生きてきたからです。
学校に行きたくない子どもの気持ちをそのまま受け止めた大人が、目の前の子どもの苦しみを自分事として理解しようとしてくれたら、子どもはどれほど日々を生きることに希望が持てることでしょう。
不登校は、再登校すれば解決する問題ではなく、毎日を健康で明るい気持ちで生きられるかどうかという命の問題なのです。