前回に続いて澤宮優さんの「不登校とわたし」(下)です。
今回は、大学生から作家になるまでの時代を振り返ります。
ノンフィクション作家、澤宮優さん(62)は、幼少期からの家庭環境や学校・地域からの偏見によって、小学校5年生の頃から理不尽な考えに頭を埋め尽くされる強迫性障害を発症しました。
中学では「神罰恐怖」、高校では「対人恐怖」から「視線恐怖症」になり、高2の担任に目の敵にされて、引きこもり不登校になりました。
高3の担任に助けられてなんとか卒業を迎えます。

自宅近くの書店が開いてくれたブックフェアにて 澤宮優さん(毎日新聞から)
→「不登校」当事者から不登校を学ぶ(その9)~ノンフィクション作家・澤宮優さん(中)「どう死ぬか」そればかり、の続きです。
【以下記事】
受け止め認めてあげる
大学時代の自殺未遂
2浪して入った大学では日本拳法部に入りました。
おやじのことでからかわれ続けたことや、小さいころから感じていた肉体的なコンプレックスもあって、強くなりたかった。
4年生の時は主将も務めました。でも入部当初は練習がいやでたまりませんでした。
防具は着けますが、殴り合うとやっぱり、ものすごく痛い。練習が怖くて、故郷の熊本に逃げ帰ったこともあります。
大学2年の時に自殺をはかったのも拳法部の練習がきっかけでした。
スパーリングで部員全員からメッタ打ちにされました。
自分は拳法も弱い、当時目指していたシナリオ作家の芽も出ない。絶望し、世の中から見捨てられた存在だとその時、思い込みました。
「眠れないから薬をください」と言って自宅近くの病院をまわり、7、8軒からかき集めた薬を一気に飲みました。
4日間ぐらい眠っていたでしょうか。そんなに強い薬ではなかったのが幸いしました。その後、診てくれた大学病院の先生に「それはよく寝られたでしょう」と言われました。

自分の強み
どうにか生きる側に踏みとどまっていられたのは、多少なりとも自分に自信が持てるようになったからだと思います。
ひとつでいいから、これだけは負けないというものを持っていれば生きていけるものです。僕にとって、それは文章を書いて表現することでした。
自殺未遂の後、シナリオ作家養成所の先生が僕の書いたものを褒めてくれていたことを知りました。先生は「コンクールに出してみよう」と言ってくれ、最後の最後まで手直しに付き合ってくれました。
結局、賞は取れなかったけれど、そこから少しずつ「生きたい」という方向へと動き出していきました。
大学職員として働きながらシナリオを描き続けました。
コンクールで落選が続くなか、脚本家の神波史男さんから「この作品はルポにしたら面白い」とアドバイスを受け、初めて書いたノンフィクション「巨人軍最強の捕手」(晶文社)でミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞しました。39歳の時でした。
その後、上司からのパワハラを受け離職し、45歳で独立しました。
同調圧力が強い日本の社会で、学校に行けないのは本人にとって大変つらいことでしょう。僕もそうですが、一生引きずっていかざるを得ない経験でもあります。
僕は考古学や文章を書くことに助けられました。何かのめり込める「こと」や「もの」があるといいですね。
でも、その場合、やはり親御さんが受け止めてあげてほしい。悩んでいること自体を認めてあげてください。
人生を振り返って、決して悪いことばかりじゃなかったなと思える日はきっと来ます。
「聞き手:小松やしほ」
【以上記事】

プロ野球創世期、沢村栄治やスタルヒンをリードし、ファンから愛された「炎のキャッチャー」吉原正喜。25年の短い生涯を、川上哲治や千葉茂ら僚友、遺族の証言や昭和初期の世相などとあわせて綴るノンフィクション。澤宮優(著)

何をやってもダメ 認められなかった大学時代の自殺未遂
2浪後20歳で大学進学。父親のことで周囲からバカにされてきた過去や肉体的な劣等感から「強さ」を求めて日本拳法部に入部。
強迫性障害の症状でもあるのでしょう。将来も目の前にある物事も見通せない状態にあった澤宮さんの選択は、さらに自分を苦しめていきます。
痛くてつらい拳法部の練習、弱者いじめのようなスパーリング。シナリオ作家としても芽が出ない。そんな自分に絶望し、澤宮さんは自殺未遂をします。
足掻くほどに、どん底に落ちていったと言っていいでしょう。
しかし偶々生き残った澤宮さんには、また救いの手が差し伸べられます。
シナリオ作家養成所の先生が澤宮さんの作品を認め、コンクールに向けて共に手直しをしてくれたのです。三度目の正直です。
難解な考古学の専門書を読んできた澤宮さんが身につけてきた文章力が生きたのです。
このことをきっかけに、何とか「生きていく」側に行けた澤宮さんは、脚本家との出会いによってノンフィクション作家として自立していきます。これが四度目の救いの手になります。

人間関係に傷ついた人は、人間関係で回復していく
「ひとつでいいから、これだけは負けないというものを持っていれば生きていけるものです。僕にとって、それは文章を書いて表現することでした。」
この言葉は、澤宮さんにとって特別な意味があります。
不適切な養育環境と偏見によって、周囲の人間から無条件に受け入れられる環境で育つことができない子ども時代を送った澤宮さんにとって、人間関係は自己の存在を否定する不安の根源でした。そのために、小学生で強迫性障害を発症し、自己否定に苦しみ続けてきました。
それでも、考古学との出会いによって小5、高3の担任に認められ、文章を書くという「自分のこれだけは負けないもの」を見つけていきます。
それができたからこそ、絶望の次にまた人との出会いがあって「生きたい」と思えるようになっていったのです。
自己否定しながらも「これだけは負けないもの」を諦めずに持ち続けたことが、人との信頼をつなぎとめ、現実に成果として他者から評価されて人に対する基本的信頼感が澤宮さんの心に芽生えて、その後の自己評価を回復させていきました。

でも「これだけは負けないもの」という言葉のフレーズには澤宮さんの追い詰められた苦しい心情が投影されています。
乳幼児期から当たり前のように親や家族から無条件に愛され、その成長発育を喜んでくれる日常が続いてきた子どもには、殊更に「これだけは負けないもの」が直ちにほしいとは思わないでしょう。
彼らの内面には人への信頼感が十分に定着していて、彼らの存在の安全や安心を無条件に保障してくれているかのように感じられているはずです。
心も平穏で安定しているので、直ぐにでも「負けないものが欲しい」と焦ることもなく、「自分の強み」をじっくりと伸ばしてもいけるのです。
しかし、澤宮さんは「これだけは人に負けないもの」を持つことで初めて立ち上がることができました。それほど小さく今にも消えそうな自分だったのだと思います。
39歳の時、澤宮さんは初めて書いたノンフィクション作品で、ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞しました。「最優秀賞」という評価は澤宮さんの大きな転機になったはずです。
その後に上司のパワハラを受けて大学職員を退職しても、それをきっかけに45歳で独立する姿に逞しさを感じて少しホッとするのです。
