「終末期の延命措置医療費の全額自己負担化」を公約にした政党が支持を拡大しています
「命がカネで切られる社会」への傾斜に、将来の自分たちの姿を重ねざるを得ない子どもたちへ、この記事は問題提起しています

【以下記事】
「命が大切にされるために 終末期医療、社会で支える」
(NEWSの窓 健康)毎日小学生新聞2025/8/10
7月にあった参議院議員選挙で、一部の政党が、高齢者の医療費が「かかりすぎだ」との主張をしました。
特に注目されたのが、参政党が掲げた「終末期の延命のための医療費の全額自己負担化」という公約でした。
この表現に、ショックを受ける人が少なくありませんでした。「年を取って社会の役に立たなくなったら医療を受けるな、というのか」と。
「終末期」とは、亡くなるのが近いと考えられる人を指します。
そもそも死ぬ間際にかかる医療費は高いのでしょうか。
亡くなる1か月前からかかった費用を調べると、医療費全体の3%に過ぎません。
その中には、急な心臓発作や脳卒中などの治療も入っていますから、長く入院している、いわゆる延命治療のケースはさらに少なくなります。
最近は、容体が悪くなった後に命をながらえるためだけの治療は、本人も家族も希望しないため、控えられるようになっています。
このような主張が出てきた背景には、高齢者の自己負担を増やすことで、若い人や働き盛り世代の負担を減らそうという狙いがあるようです。
「社会保険料」という言葉を聞いたことがありますか?
病院の窓口での負担を抑える医療保険や、老後の生活を支える年金などを運営するために払うお金です。
毎月の給料から差し引かれることが多く、健康で収入がある人にとっては「自分には意味がない無駄な支出だ」と感じるかもしれません。
しかし、若くても、いつ病気になったり事故などで障害を負ったりするか分かりません。だれもが必ず年を取り、バリバリ働くことは難しくなります。
社会保険料は、そのような時のための「備え」であり、国民みんなで支え合う仕組みになっているのです。
「終末期の高齢者は医療費を自分で払い、元気な若い人の負担を少なくすべきだ」というのは都合の良い話と言えます。
「病気になって働けない人」や「長く治療が必要な病気の人」も、自己負担を迫られることになりかねません。
一人一人の命や暮らしが大切にされる社会になってほしいですね。

※参政党の公約(参議院選挙)
【多くの国民が望んでいない終末期における過度な延命治療を見直す】
70歳以上の高齢者にかかる医療費は年間22兆円と全体の半分程度を占め、特に85歳以上になると一人あたりでは100万円を超える。
終末期における過度な延命治療に高額医療費をかけることは、国全体の医療費を押し上げる要因の一つとなっており、欧米ではほとんど実施されない胃瘻・点滴・経管栄養等の延命措置は原則行わない。
「主な施策」
本人の意思を尊重し、医師の法的リスクを回避するための尊厳死法制を整備。
事前指示書やPOLST(生命維持治療に関する医師の指示書)で、医師が即座に心の負担なく適切な判断ができるプロセスを徹底。
終末期の点滴や人工呼吸器管理等延命治療が保険点数化されている診療報酬制度の見直し。
終末期の延命措置医療費の全額自己負担化。

参政党の政策に対し「全国保険医団体連合会」が声明を出しています
【以下声明の抜粋】・・・
異常な政党公約
終末期医療のあり方はセンシティブな課題である。・・・お金でいのちを選別する参政党の公約は異常である。
生きる権利を国が奪う
・・・(終末期の医療の)「全額自己負担化」の導入は、経済的にゆとりのない人から「生きる尊厳」を国家が強制的に奪うものにほかならない。お金がいのちの長短を決める思想・政策を政治家が掲げるようなことは到底許されるものではない。
想像力の欠如
政治家(政党)である以前に、人としての想像力の欠如も疑わざるを得ない。
終末期は高齢者に限らず、がんや難病はじめ重篤な疾患にり患する全ての世代に関わる。終末期にある患者がただ生きているということだけで家族はじめ周囲の人たちが救われる事態が厳然としてある。
終末が近い子どもと過ごす親、長年連れ添った相方との最期の時間、親しかった友人の看取りなど最期の過ごし方の“かたち”は人の数だけあり、一様に決められるものではない。
終末期医療を“お荷物”“無駄”であるかのように見なして、事実上強制的な打ち切り(全額自己負担化)を求める主張は、人として想像力の欠如に尽きるものと言わざるを得ない。

「終末期医療が医療費を押し上げている」は事実誤認 医療経済学者
・・・医療経済学者の二木立氏は、「(終末期医療費が)総医療費に対する割合は約3%にすぎないこと」が確認されている。・・・「終末期の医療が医療費を押し上げている」は事実誤認であるとしている。
【以上抜粋】

二木立氏(日本福祉大名誉教授)
※声明で紹介された二木立氏は、さらに別の記事のインタビューでこのように述べています。
「参政党の「終末期の延命措置医療費の全額自己負担化」等の公約が、2019年に落合陽一・古市憲寿氏(対談)が述べたこととそっくりであることに驚きました。
彼らも「(高齢者に)『最後の1か月間の延命治療はやめませんか?」と提案すればいい」、「終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もする」と言っていました。・・・ただし、6年前はあくまでも二人の個人の言説で、・・・厳しく批判され、落合氏は謝罪・撤回しました。古市氏は今でも頬被りしています。
昨年、玉木雄一郎(国民民主党)の党首討論会での「社会保障の保険料を下げるためには、我々は高齢者医療、特に終末期医療の見直しにも踏み込みました」という発言についても批判されて、あっという間に撤回しましたよね。
それに対して、今回は「全国政党」の公約でありながら、ジャーナリズムでの報道や批判はごく限られていること、そのために参政党もその公約を撤回していないことに、恐ろしさ・異様さを感じています。
・・・
「貧乏な人はちゃんと金を貯めなければいけませんよ、自立しなさい」、という意味でしょうか?
「胃ろう」だけでも新規に受け始めた人が毎年5万人はいることを考えると、恐ろしい主張です。
普通の成熟した政党であれば、与党であれ野党であれ全額自己負担なんて掲げません。日本維新の会でさえこんなことは言っていません。
要するにウケ狙いだと思います。
・・・だけど今の若者だって、何十年か後には高齢者になるんです。未来の自分の首を絞めているんですよね。そこをわかっていないのではないかと思います。
【以上】(医療記者 岩永直子のニュースレター2025/7/10スマートニュース)

終末期医療・高齢者医療は「全世代」の問題です
これまでも高齢者医療と重ねて終末期医療に対して、「どうせもうすぐ死ぬんだから」というような「命」への想像力の欠落から、医療費全額自己負担の言説が繰り返されてきました。
しかし、医療の進歩によって平均寿命が伸び、高齢になって重篤な病気に罹患する人が増えた分高齢者医療費負担は増えましたが、「終末期」は必ずしも高齢者だけに訪れるものではありません。残念ながら若くして病を得て、「終末期」を迎える人たちもいるのです。
一日でも長く生きたいと考えるかどうかは個人が決めることです。その意思を尊重し、保障する法制度の整備が国の役割です。ましてカネのあるなしで国が決めることではありません。
しかし、参政党の支持拡大によって、命の大原則が揺らぎ始めています。根拠のないフェイクをでっち上げ、カネ次第で延命を国家が決める制度を作ることを大声で言って憚らない社会に傾斜していることは確かなのです。

人間の生き方・人生を左右する命への価値観
世界の現実をみても経済的安定と平均寿命は密接な関係がありますが、その貧富の現実の不条理を簡単に肯定できるかどうかは、その人の死生観や価値観の立ち位置に関わる問題です。
今、日本では、経済格差が命の差になることを「不条理」と感じない人が増えてきたのかもしれません。
経済合理性優先の物の見方に長年慣れ親しんでしまうと、人の思いへの想像力が低下し、それに捉われることが馬鹿げているかのように感じていきます。
ポンコツの愛着のある中古車を修理しながら乗るよりも、最新モデルの高級車を買える方がステイタスのある自分として胸を張ってしまうのと似ています。
その目に映る人間の姿も同様です。
その社会を体現するような若く健康で「優秀な」人材が価値が高く、社会不適応や病気を抱える「面倒な」お荷物になるような人や「老人」は、赤字の鉄道路線と同じく、経済的に不要な廃棄対象として目に映ることでしょう。
そして、今の自分にとって切実な問題ではなければ、「終末医療」や「高齢者医療」などはどこまでも他人事で、「社会保障費の無駄遣いだ」と言い切る自分に万能感すら覚えているかもしれません。

子どもたちは何を内面化して生きていくのか?
子どもたちにとって、大人の姿は「明日の我が身」です。老人の姿は「行きつく先」です。今の社会を生きる子どもたちには、社会がどう見えるのでしょうか?
毎日学校で勉強したり、友達と遊んだりしながら、漠然とでも自分は安心できる社会に生きていると感じられているでしょうか?大人になっても、自由で良い人生が待っているという希望をもてるでしょうか?
年を取って病気になっても社会に見捨てられることはないと思えるのでしょうか?
子どもたちの心には、目の前にいる大人たちの姿が内面化されます。
それは、困難を抱えた人たちを自分事として支援するのが当たり前の相互扶助の社会なのか?
それとも、自分だけはカネを稼いで何とかなればいいという他人事社会なのか?
そんな「命の分岐点」に日本社会は差し掛かっているのです。

